24:絶叫
寝台に横たわるXに、潜航装置から延びるコードが取り付けられる。
これから、どのような場所に送り込まれるかもわからないはずなのだが、瞼を閉じたXは昨日までそうであったように、今日もいたって穏やかな表情をしていた。
――『潜航』、開始。
私の合図に合わせて、潜航装置が動き出す。コンソールに流れてゆくログが、一連のシーケンスが滞りなく行われていることを示す。肉体と意識の分離プロセス、完了。『こちら側』と隣り合う『異界』との接続、完了。Xの意識を送り込むプロセスも問題なく完了。
そして、潜航装置に繋がっている大型のディスプレイとスピーカーが、それぞれXの視覚と聴覚のトレースを開始したことを、コンソールのログが示す。
Xが瞼を閉じているからだろう、ディスプレイはまだ闇に包まれたままだ。だが、スピーカーの方はトレースを開始した瞬間には既に『異界』の音を捉えていた。
声だ。ざわざわと、囁き合うような、声。その内容までを聞き取ることはできなかったが、不安と緊張に満ちたざわめきに、こちらまで不安になってくる。今、Xはどのような状況に置かれているのだろうか。人間は、その大多数がまず視覚によって外界を認識しようとする。もちろん私もそうであり、他のスタッフもそうであるはずで、視覚情報が欠け落ちている状態で『異界』を把握するのは難しい。
やがてXがゆっくりと瞼を開いたことで、ディスプレイが明転する。目に差し込む光が眩しかったのか、激しく瞬きする気配。しばし明滅していたディスプレイが落ちついた頃には、Xの視界がはっきりと映りこむようになったの、だが。
悲鳴にも近い声がスピーカーから上がる中、ディスプレイに映ったものは、足元に見えるビル街。道行く人々は豆粒のように小さく、一部の背の低いビルの屋上をも見下ろし、なお、ゆっくりと視界が持ち上がり続けている。
Xの視線が足元から自身の横へと向けられる。Xの両脇には人が座っている。『こちら側』の人間とそう変わらない姿をした、人。宙に浮いた己の足先を見つめたまま、すっかり血の気の引いた、強張った顔をしている。ディスプレイの端を見ると、更にXの背の後ろにも人が並んで座っているらしいことがわかる。
そう、どうやらXは何かに座らされているようなのだ。だが、何に座っているのか、我々からはよくわからない。どうも体を拘束されているのか、左右に首を動かすくらいしかできないらしく、それ以上のことを画面から知るのは難しそうだ。
不意に、ゆるやかに上へ上へと上り続けていた視界が急に静止して、Xの視線が再び足元に向けられる。息を飲む声、恐怖を訴える声、様々な声がスピーカーから聞こえてくるが、Xは依然口を噤んだまま、じっと、眼下に広がる街並みを見つめていた、が。
今までその場に静止していたのが嘘のように、Xの体が落下を始めたのだ。いや、視界の端に映る隣席も同様であることを見るに、Xが座っている「何か」が丸々落下している――!
Xと運命を共にしている人々の絶叫がスピーカーから響く中、みるみるうちに地面が近づいてきて、見ているこちらの内臓に不愉快な浮遊感をもたらす。引き上げを命じる間などありはしない。墜落の瞬間を見届けるしかないのか、と思った次の瞬間、ディスプレイの景色がぐっと揺さぶられ、地面を向いていた視線が持ち上がる。
自由落下の速度で落ちていたはずのXは、地面すれすれの位置で墜落を逃れ、しかし、ものすごい速度で今度は街の中を滑空し始めたのだ。しかも、真っ直ぐに走るのではなく、道を外れ、ビルとビルの隙間を縫うかのよう。時には建物の横すれすれを走り、時にはビルの窓ガラスに衝突する、と思わせたところで急上昇し、視界を上下反転させながらビルの屋上を飛び越えていく。
画面に映る景色が、次にどう変化するのかまるで予測できない。スピーカーから聞こえてくる悲鳴を浴びながら、我々は、ただ、ディスプレイを凝視していることしかできない。
めくるめく視界に、内臓を揺さぶられているような思いに囚われる。実際に揺さぶられているのはあくまでXのはずなのだが、彼の主観視点の映像を観察していると、まるでそれをこちらも無理やり体験させられているような錯覚に陥る。
いくつもの落下、上昇、回転に反転。目が回って仕方ないが、目を離すわけにもいかないのだ。何しろ、それが、我々の仕事であるがゆえに――。
果たして、これが、この『異界』における一種のアトラクション――『こちら側』でいうジェットコースター的なものである、とわかったのは、Xの視界が完全に停止して、満面の笑顔の係員に迎えられてからだった。
街の中に定められたルートを縦横無尽に駆け巡る、今までにない体験。先の軌道が見えないことによる、予測不能の挙動。遥かな高みから地面すれすれまで飛び降りるかのような感覚は、他のどこでも味わうことはできないものだ。そう係員は説明した。もちろん、何よりも優先されるものは乗客の安全であり、現在に至るまで一度も事故が起こったことはない、のだという。
先ほどまであれだけ絶叫をあげていたはずの人々も、口々に感想を言い合いながら行き過ぎていく。そんな様子を視界の端に捉えながら、Xは丁寧に説明してくれた係員に一礼して、こう言ったのだった。
「なかなか、刺激的な体験でした」
かくして、引き上げも滞りなく行われ、Xが寝台の上で瞼を開く。『潜航』の開始時と何一つ変わらない様子であるのも、いつもの通り。コンソールのログも全てのプロセスがエラー無く完了したことを告げている。何一つ、何一つ変わることなどない、普段通りの『潜航』だ。記録としてもそう記すことになるだろう。
しかし、コードを取り外され、身を起こしたXが、辺りをゆっくりと見渡して、わずかに眉を寄せる。怪訝そうな……、もしくは、心配そうな顔、というべきか。
何か思うところがある状態で黙っているXも、延々ともの言いたげな顔を向けられるこちらも、お互いに精神衛生によくないだろうと考え、発言を許可する。Xは「すみません、余計なお世話かもしれませんが」と言いおいて、ぽつりと言う。
「皆さん、顔色が悪いように見受けられますが。……大丈夫、ですか」
「大丈夫、大したことは、ないわ」
大したことはない。何が起こったわけでもない。Xのように自らの身を危険に晒して『異界』での出来事を体験したわけではなく、いたって安全な『こちら側』でXの視界を眺めていただけに過ぎない。
「ただ」
「ただ?」
「実際に体験するよりも、見ているだけの方がきついことも、あるのかもしれないわね……」
世の中には「画面酔い」という、この状態を的確に表す便利な言葉があることを、今更ながらに思い出していた。代表的なのはビデオゲームをプレイしている最中に起こるそれだが、それだって、プレイヤーよりも周りで見る者の方が深刻になりがちだと聞いたことがある。今の我々の状態も、同様だったに違いない。
Xも私の言葉だけで我々が苦しんでいる理由を察したらしく、「なるほど」と重たく頷いてから、ごくごく真面目な調子で言うのだった。
「酔いには、氷水が効く、と聞いたことがありますが」
「情報提供ありがと、試してみるわ」
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