11:緑陰

 今回の『異界』は、暑かった。

 我々は『潜航』するXの視覚と聴覚でのみ『異界』を観測できる。故に、Xが降り立ったその場所がどれだけ暑いのかを、正確に知ることはできない。

 ただ、青空からぎらぎらと照りつける太陽、足下に落ちる濃い影、そして何より、Xが絶えず額から流れ落ちる汗をトレーナーの袖で拭っているところから、そこがかなりの熱に包まれているらしいことを察する。

 いっそ服を脱いだ方が楽になれるのではないか、とも思ったが、この照りつける陽光の下では素肌でいるのも辛いのかもしれなかった。『異界』におけるXは、『こちら側』の肉体と切り離された意識体だが、Xによればほとんど実の肉体と変わらぬ感覚を保持しているとのことなので、ディスプレイから読み取れる情報からの推測も、Xの体感からそうかけ離れてはいないだろう。

 どこかに陰となる場所が存在しているならばよかったのだろうが、Xの目の前に広がっているのは、遮るもの一つない遥かな荒野。その真ん中に一本だけ伸びている、ところどころがひび割れ、崩れかけたアスファルトの道路の上を、ひたすらに歩くしかないのだ。

 Xの視界の中には、砂に覆われ、ほとんど大地と一体化している建造物の土台や、柱や骨の残骸らしきものが見受けられ、アスファルトの道路を含めて考える限り、元々は何者かの手が入っていた場所であったのだろう。だが、今、この場に存在するのはX一人。他には人間どころか、動物や虫の気配すら感じられない。

 荒野を真っ直ぐに貫いている道は、どこに続いているのだろうか。それとも、どこにも辿り着けないままか。

 何せ、『潜航』には時間制限がある。明確な限界が定まっているわけではないが、異界潜航サンプルであるXへの負担と、我々のデータ分析の時間も加味すると、長時間の『潜航』は効率が悪い。そのため、事前にそのつもりで計画している場合を除き、『潜航』は一定時間で切り上げるルールで運用している。

 この調子では、時間切れになるよりも、Xが限界に陥る方が先かもしれないが。

 ひとたび『潜航』を開始すれば、全ての判断はXに委ねられる。

「可能な限り『異界』を観測しろ」――それが、私がXに与えているタスクだが、この「可能」の範囲を決めるのはXであり、私ではない。

 もし、Xが些細なイレギュラーで即座に音を上げるようなサンプルであれば、更なる命令で縛りあげていただろうが、幸いというべきか、Xは我々の想像よりも遥かに粘り強く、常に制限時間ぎりぎりまで『異界』を観測しようとする。故に、私は帰還に関してもXが合図をした時点で引き上げを行うことにしていた。自ら引き上げを望むということは、Xにもそれだけの理由があると判断して。

 Xがもう一度、目に入りかけていた汗を袖で拭う。一瞬、ディスプレイが暗転し、それから明転したところで――先ほどまで見えていなかったはずのものが、ディスプレイに映りこんでいることに、気づいた。

 延びる道の遥か先に、何かが揺らめいている。今まで、雲一つない青空と赤茶けた地面、そしてアスファルトしか見えていなかった視界に、突然生まれたその色は、緑。

「……蜃気楼……?」

 掠れたXの声が、スピーカーから聞こえてくる。

 確かに、突如として現れ、頼りなく霞み、揺らいで見える緑は、蜃気楼か何かと考える方がよっぽど現実的だ。それが、Xの立っている場所から、さほど遠くない位置に見えているのだから、尚更だ。

 とはいえ、道の先に待ち構えているように見えるそれを、あえて避けて通る気にもならなかったとみえる。Xは、少しだけ歩調を速めて、視線の先の緑を目指す。

 サンダル履きの足が熱されたアスファルトを踏む。一歩進むたびに、確実に緑色をした何かに近づく。いや、Xが一歩を踏みしめて縮まる距離を考えると、これだけの速度でディスプレイの中に緑色が占める割合が増えるのは、おかしいのではないか。

 ――そうだ。この緑色の何かが、自ら、近づいてきている、ような。

 彼我の距離が縮まるにつれ、その「何か」が、刺すような日の光を浴びてなお深い緑の葉で覆われた一つの森であることがわかってきた。もはや霞んでも揺らめいてもおらず、確かな存在感を示しているそれは、スピーカーから響く鈍い音を立てている。

「……動いて、ますね」

 ぽつり、呟いたXは、既に、その場に立ち止まっていた。だが、森はどんどんこちらに近づいてくる。木々を揺らし、地鳴りのような音を響かせながら、アスファルトの道を逆走してくる森の姿は、どうにも現実とは思われなかった。

 だが、Xが立っているのは『異界』である。『こちら側』ではあり得ない出来事などいくらでも起こりうる。森が動く程度、驚くに値しないと言ってしまえばそれまでだ。

 そして、それは私が改めて語るまでもなく、『異界』に潜り続けてきたXの方がよほど了解しているに違いない。呆然と動く森を眺めていたのは、ほんの一瞬のこと。大きく一歩を踏み出して、森と向かい合う。

 Xの視界から読み取る限り、それは絶えず移動していながら足や車輪といったものは見て取れず、地面の上を這うように移動している。地面を擦っているのはこの枯れた土地には似合わぬ肥沃そうな黒土で、木々はその中に根を張り巡らせているようだった。

 Xはゆっくり近づいてくる森に正面から踏み込み、黒土からはみ出していたひときわ太い木の根にしがみつく。そして、他の根を手掛かり、足掛かりにして、動く森の「地面」へと乗り上げることに成功した。

 動き続ける森の端から、Ⅹは先ほどまで自分が歩いてきたアスファルトの道を見下ろす。木陰から眺めているからか、目を焼くほどの陽光が降り注いでいる。こんな場所を歩いていたのだ、ということを、ディスプレイ越しに観察しているだけの私ですら嫌というほど思い知るのだ、当事者であるXの実感はいかほどか。

 地響きの音の中に、Xがほっと息をつく。そして、木の幹を背にしてずるずると座り込む。下がった視界に映るのは、熱に支配された世界の中にあるとは思えない、もう一つの世界。見事な幹を持つ木々の間に木漏れ日が落ち、背の低い木々や草を浮かび上がらせている。

 小さな虫が、Xの視界を横切る。遠くで草ががさがさと鳴り、鳥の声が聞こえてくる。この『異界』で初めて観測する、生きているものたちの気配。

 この森はどのようにして生まれ、荒野を彷徨うに至ったのか。視界に映るもの全てが熱波に晒され、動くもの一つ見つけられなかった『異界』において、どうしてこの森だけがが生命を抱いていられるのか。

 いくつもの疑問が脳裏に生まれはするが、それらに答えがもたらされることはない。私はあくまでXの目を通して観測し、データを収集するだけ。何一つ明らかになどならないのだ、ディスプレイの向こうは『こちら側』ではなく『異界』なのだから。

 Xは、つい、と視線を上げる。何もかもを焼き尽くすかのような光も、頭上を覆う木の葉を透かせば、木々が生み出す薄暗がりに、柔らかな明かりとして降り注ぐ。

「……すみません。少し、休憩させて、ください」

 スピーカー越しに聞こえてきたのは、きっと、観測している我々に向けた言葉であり、『潜航』中は『こちら側』からXに何を伝えることもできない以上、どこまでも無意味な言葉でもある。声に出すまでもなく、好きにすればいいはずなのだ。『異界』におけるあらゆる判断は、Xに任されているのだから。

 故に、私はほんの少しだけ、おかしくなる。つい、言葉にして確認せずにはいられないのだろうXのことが。そして、それをどこか愉快に思う、私自身のことが。

「いいわよ、ゆっくり休みなさい。……いつも、働きすぎだものね」

 私は画面の向こうのXに、届かない声をかける。

 かくして、Xはもう一度、深く息をついて――ほんの一時、瞼を閉じる。

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