10:くらげ

 闇を仄かに照らしているのは、周囲に浮かぶ、青白く光るクラゲだ。

 どこまでも静かな、深い深い闇の中。海の底を思わせる『異界』ではあるが、Xが問題なくその場に存在し、我々も彼の視界を映すディスプレイを通して観測できている以上、『こちら側』の海底とはまた異なる空間なのだろう。

 地面は細かな砂利に覆われ、時々大きな岩が転がっていることが、クラゲの放つ明かりによってかろうじて判別できる。

 クラゲ、と表現はしているが、もちろんこれも『こちら側』にいる私の目にそのように見える、というだけの話であり、実際のところは、私の知るクラゲとは全く別の存在だ。そう、頭で理解はしているが、ついつい自分の知識に関連付けて、似た事物の名で読んでしまうものだ。

 光るクラゲたちは、何をするでもなく、ただただ、虚空を漂うのみ。柔らかな傘と長く伸びた触手を揺らしながら浮かぶ姿に、意思のようなものは感じられない。

 その幽かな明かりだけを頼りに、Xは足元を確かめながら歩き出す。サンダル履きの足は砂利を踏んでいるはずだが、スピーカーから音が聞こえてくることはない。

「静かですね」

「そうね」

 スタッフと言葉を交わしながら、ディスプレイに映るXの視界を見つめる。闇に柔らかな光が漂う幻想的な光景は、遥か彼方まで続いているように見える。Xは、いつもそうしているように、特にあてもなく歩き続ける。私がXに課しているタスクはただ一つ、その目と耳をもって、可能な限り『異界』を観測することであったから。

 漂うクラゲの動きに規則性はなく、その大きさもまちまちだ。手のひらに収まるくらいの小さいものから、触手を伸ばせばXよりもはるかに大きいだろうものまで。

 それにしても、クラゲの宿す光以外に目に映るものがほとんどないために、遠近感がすっかり狂ってしまい、ディスプレイの映像だけではXが前進しているのかどうかも定かではなくなってくる。

 ゆらゆら、ふわふわ、闇の中にクラゲは揺れる。それとも、揺れているのはディスプレイに映し出されているXの視界の方だろうか。段々、その境界すらも曖昧になってゆくのがわかる。

 ――だが、何かが、おかしいような。

 違和感を覚えていると、ふわり、とディスプレイの中に一際大きく長い、仄青く光る触手が横切る。

 いつの間にか、そう、いつの間にか、かろうじてディスプレイの下部に映っていたはずのXのサンダルの足先が見えなくなっていたと気づく。砂利に覆われた地面ももはや闇の中、映し出されるのは、星のように灯るクラゲたちと、ゆらゆらと揺れる、どこから伸びているのかもわからぬ――否、頭が理解を拒絶している長い触手のみ。

 そのうちに、ディスプレイに浮かぶ、クラゲたちの輪郭すらもぼやけてきて――。

「引き上げて、早く!」

 異変に気づくのが遅すぎた。

 いつからそうなっていたのかはわからない。予兆らしきものを何一つ見いだせないまま、観測している我々のうちの誰一人気づかぬままに、Xはいつの間にか「変容していた」のだ。

 辺りを漂う、クラゲのように見えるそれらと、全く同じものに。

 Xの意識体に繋がる、目には見えない命綱が引き上げられる。数秒の後に、潜航装置のモニターが引き上げ成功を告げてきた。だが、それは単に意識を肉体に戻すプロセスが正常終了しただけであって、Xの意識が元の形を維持していることを保証するものではない。

 潜航装置から延びるコードに繋がれて寝台に横たわるXは、瞼を閉じたまま身じろぎ一つしない。普段の『潜航』では、引き上げが完了すればすぐに意識を取り戻すというのに。

 まさか、意識も自我も何もかもを溶かして、完全にあのクラゲたちと同じものになってしまったのか。冷たい不安が背筋を駆け抜ける。

「X、聞こえる?」

 いつになく声を強めて、Xを呼ぶ。

『異界』では何が起こるかわからない。故に、いつ命が失われても構わない、替えのきく探査機として選ばれたのがXだ。それでも、人の形をしたものが物言わぬ肉の塊になる瞬間を見届けるのは、当然ながらよい気分ではない、わけで。

 スタッフの一人が、Xの体に繋がれたコードを外しながら肩を揺さぶる。力の抜けた身体が何度か左右に揺らされた、その時。不意に、Xが瞼を開いた。

 わずかにちぐはぐな色をしている目がしばし虚空を眺めていたかと思うと、肩を掴むスタッフへと向けられる。唇が少しだけ動きかけたようだったが、そこから何らかの言葉が漏れることはなかった。

「X、私の言葉がわかる?」

 私の問いに対し、Xは一拍を置いて、頷きを返してきた。視線もぶれることなくこちらを見ていることから、どうやら、意識は戻っていると思って差し支えなさそうだ。

 反射的に長く息を吐き出したことで、自分がすっかり息を詰めていたことを自覚する。Xが『異界』で不可解かつ不条理な事態に遭遇するのは初めてではないが、いつになっても慣れることはない。

 スタッフの手を借りるまでもなく、Xが上体を起こす。意識による肉体の制御も問題ないように見えて、やっと心から安堵できた。

「発言を許可するわ。あなた、『異界』で自分がどうなっていたのか、わかってる?」

「いえ。歩いていた、と思っていたのですが、そのうち頭がぼんやりしてきて、気づいたら、引き上げられていました」

「なるほどね」

 Xの主観としては、自分が変容していた自覚はないらしい。頭がぼんやりしてきた、ということは、あの場に存在する者の意識を麻痺させるような何かが、あの『異界』に、もしくは漂うクラゲたちに働いていたのかもしれない。本来あるべき形を忘れさせてしまう、毒というべきか。もちろん、全ては仮定に過ぎないが。

「あなた、クラゲになっていたのよ。ここで引き上げなかったら、あの中の一匹として、延々と漂っていたんじゃないかしら」

「それは、……好ましくない、ですね」

 自我も何もない、ただただ闇の中に浮かぶだけのクラゲになり果てるのだ。事態に直面したXからしてみれば、好ましくない、どころの話ではないのではないはずだ。まあ、Xらしい言い回しと言えばそうなのだが。

「だけど、本当に何もわからなかったの? こっちは気が気じゃなかったのだけど」

「そうですね……、意識は、曖昧でしたが」

 私の言葉に対して、Xは、いたって穏やかな表情で、こう、答えるのだ。

「涼しくて、静かで、心地よかったですね」

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