09:団扇

「研究所の空調が壊れたのよ」

「はあ」

 発言を許可したところで、Xの口から漏れたのは気の抜けた声だけだった。

「地下は平気だったかしら?」

 Xは研究所の地下に設置された独房で暮らしており、自宅からここに通っている我々と違って、何があろうとこの研究所からは逃れられない。だからこそ、『異界』での体験とはまるっきり無関係な、空調の故障が理由で体を壊したなどと言われては話にならない。

「朝から少し温度が上がったとは感じましたが、気になるほどでもありません。地上ほど、変化が激しくないのかと」

「ならよかったわ。換気設備は生きてるらしいから、即座にどうこう、ということにはならないと思うけど」

 それは何よりです、とXも安堵の気配を滲ませる。地下は地上以上に適切な換気を行わなければ、時には命にも関わる。『異界』での災難であるならともかく、『こちら側』の環境の不備で命の危険にさらされるのは、流石のXも望むところではないのだろう。

「しかし、それで、何故『潜航』が中止になるのですか」

 そう、あくまでXにとって重要なのは、本日の『潜航』が中止になった、ということである。そして、Xの疑問もまあ、当然とはいえよう。空調が利かなくとも『異界』に潜って戻ってくるだけなら特に支障はない――と考えるのは、わからなくはないのだ。特にXは『異界』に潜ってしまえば『こちら側』の様子を知ることはないため、尚更だろう。

 だが。

「空調が利いてないと、潜航装置が動かせないのよ」

「……潜航装置が?」

「動かせない、というよりは、動かしたくないって言うべきかもしれないけど。とにかく、この状況で『潜航』を強行するのは得策ではない……、というのが私の判断」

 しかし、Xは依然として首を傾げたまま、研究室のど真ん中に鎮座ましましている潜航装置を見上げている。

 潜航装置は、大型のサーバーラックに収まっている、見た目だけで言うならば何の変哲もないコンピューターだ。何せ、ガワは世間に流通しているものを流用しているのだから、何の変哲もなく見えるのも当然だ。

 だが、その中身に関しては唯一無二である。コンピューターから延びているコードを人間の体に取り付けることで肉体と意識とを分離し、この場から観測可能な『異界』へと『潜航』させる――詳細なプロセスについて語りはじめると日が暮れるどころの話ではないため割愛するが、つまるところ、この潜航装置こそが我々のプロジェクトの要、なくてはならないものなのだ。

 そして、潜航装置は内部のブラックボックス部分はともかくとしても、基本的には見ての通りの電子機器であり、精密機器だ。つまり――。

「これ、とにかく熱に弱いのよ」

「熱に弱い」

「潜航装置そのものにも最低限の冷却機能は備わっているけど、それでも発熱は避けられないから、部屋の空調も併用して温度の上昇を防いでいたの」

「ああ……、だから、いつもは、季節に関係なく涼しいんですね」

 言うXの額には汗が滲んでいる。潜航装置を起動していない状態でも、部屋を閉め切っているだけで熱がこもるのだ、これから更に暑くなっていくことは容易に想像できる。私もじわじわと浮かんでくる汗をハンカチで拭き取りながら、説明を続ける。

「適切な冷却が行われずに過熱状態になった装置は、誤動作や停止、再起動を起こしかねない。……潜航装置が誤動作すれば、どうなるか想像できるかしら?」

 Xは首を横に振る。わざわざ言葉にするまでもなく、何もわかっていないという顔だ。とはいえ、私も実際に潜航装置の誤動作を経験したことはないため、あくまでこれは仮定であり、私なりの想像に過ぎないが。

「命綱が切れて『異界』に置き去りにされるくらいならまだよい方で、意識体に異常が出てもおかしくないわ。装置が焼き切れれば、装置に関連づけられた意識も当然ダメージを負うでしょうし、最悪、装置から意識が切り離せなくなって『異界』にも『こちら側』にも出ていけなくなるかもしれない」

「つまり、死ぬどころか、死ぬに死ねない可能性もあると」

「そういうこと」

「それは、確かに、遠慮したいですね」

 Xは、死に対する恐怖心が極端に薄い人物であるが、「死ぬに死ねない」となるとどうやら話は別らしい。彼には珍しく、表情こそ変えないまでも、声には露骨なまでの嫌気が滲んでいる。

「そういう事故を起こさないためにも、空調が直るまでは無理に『潜航』をしない方針。それまでは、地下で待機していてくれる?」

「待機、ですか……」

 その声の沈みを判断できるようになっただけ、私もそれなりにはXの思考パターンに習熟してきたのではないだろうか。

「不満そうね」

「することがないと、落ち着かなくて」

 そう言うだろうとは思っていた。仮に、好きにしていい、と言ったところで、独房でできることなどたかが知れているし、そもそもXは極端なワーカホリックだ。休暇よりも仕事をしている時の方がよほど気が楽という、私には少々理解しがたい類の人種。

 Xは沈黙する潜航装置を名残惜しそうに見上げて、ぽつりと言った。

「なんか、こう、団扇とかで扇いだら、どうにかなりませんか」

「その程度では絶対にどうしようもないし、仮にどうにかなるとして、誰が扇ぐのよ……」

 言外の「私は絶対に嫌だ」という気持ちは、Xにもしっかり伝わったに違いない。それもそうですね、と肩を落として言ったXの顎からは、絶えず汗が滴っていた。

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