08:さらさら

 長い髪は億劫ではないか、と言われれば、もちろん、それなりに億劫だ。

 特に夏の盛りと冬の間はよくない。夏は洗った髪を乾かしている間に汗が止まらなくなる。髪が乾く頃には全身が汗でびっしょりになってしまい、再びシャワーを浴びずにはいられない。冬は冬で、洗った髪が完全に乾くまでにやたらと時間はかかるし、その間に温まっていたはずの体はすっかり冷え切ってしまう。これでは風邪を引いてしまいかねない。空調の利いた場所で乾かせばよかろう、というのはもっともだが、洗面所からドライヤーを持ち出すのも面倒だ。

 それに、朝の手入れもなかなか大変だ。寝ている間に乱れてしまった髪を整えるだけでも手間であるが、それに加えて、外に出ても悪い意味で人の目を引かない程度のセットをする必要がある。長い髪を放置しておくと、それはそれはみすぼらしくなってしまうということを、私は嫌と言うほど思い知っている。

 それでも髪を切らないのは、単に、機会がないからだ。そろそろばっさり切ってもよいだろうか、と思いながら、美容院に行けば考えるよりも先に「いつもの通りに」と言ってしまう。今までのイメージを一新するだけの理由が特にないというのもある。

 まあ、髪型を変えようと変えまいと、誰が見るわけでもない、といえばそう。

 何となく気分を変えたくて、いつもの髪型に編みこみを加えてみたり、仕事の邪魔にならない程度の飾りをつけてみたりしてみたことはないでもないが、プロジェクトメンバーからこれらの変化について言及されたことは一度もない。言いづらい――特に見た目について言及すると、すぐハラスメントと認識されがちな時代ではある――というのもわからなくはないが、これは、単に気がつかれていないだけのような気もする。

 別に気づかれなくても何も困らないのだが、少しだけ、ほんの少しだけ、何かに期待してしまっているのかもしれない。その「何か」が何なのかは、私にも上手いこと説明できそうになかったが。

 かくして、今日も私は髪を結って研究室に赴く。髪を下ろしたままでは鬱陶しく、大概は後ろで一つ結びにするか、お団子にまとめるかのどちらか。今日はまとめるのも面倒であったから前者。ただ、昨日に引き続き朝から重苦しい天気であったから、いつもと違い、目に鮮やかな白のシュシュを添えて気分を上げる。頭に飾ったものなど自分では見えないのだから、ろくに意味がないと言えばそうだが、それこそ単なる気分、自己満足というやつだ。

 ――だから。

「今日は、明るい雰囲気に、見えますね。爽やかな感じが、します」

 Xの口からそんな言葉が出るとは、思いもしなかったのだ。

「そうかしら?」

「はい。その髪飾り、初めて見ましたが、黒い髪によく映えますね」

 そうだ。Xは我々のことをよく見ているのだと、改めて突きつけられる。Xを観察しているはずの私が、Xに観察されているのだと初めて気づいたのはいつのことだったか。ことさら言葉にしようとしない性質故に、私も普段は意識していないのだが、我々が思う以上に我々の変化に敏感なのが、このXという人物なのだ。

「変じゃない?」

「とても、似合っていますよ」

 Xは常日頃から我々の前ではほとんど表情らしい表情を見せず、それは、この瞬間も例外ではなかった。本当に似合っていると思っているのか否かも、わかったものではない。

 ただ、その一方で、見え透いた世辞を言うタイプでもない、というのが私のXに対する評価であって。

「そう言ってもらえるなら、嬉しいわ」

 Xの口から出る言葉である限り、それは私の機嫌を取るためだけの出任せでない。そう思うと気は楽だし、悪い気もしない。そういうことだ。

「近頃、外がずっと雨続きなの。だから、少し気分を変えようと思って」

 いいですね、とXはほんの少しだけ口の端を歪めた。ほとんど笑顔を作ることのないXなりの、不器用な、笑い方。

「一つ、いつもと違うだけでも、気分は変わりますからね。それに」

「それに?」

「そのような心がけは、周りも、気持ちよく感じますから。とても、よいことだと、思います」

 ……そういうもの、だろうか。

 この仕事を始めてから、今まで、髪型の変化に言及されたことは一度もなく、言いづらいのかも、気づかれていないのかもわからないまま、どうせ自己満足なのだから構わないと自分に言い聞かせながら過ごしてきた。

 しかし、Xは。

「少なくとも、私は、そう思っています」

 わずかに歪んだ下手くそな表情で、そう、言ってのけたのだ。

 果たして、私はそんなXにどのような言葉をかけるべきだったのだろうか。結局のところ、その時は、曖昧な反応しか返せないままに終わってしまったのだった。

 長い髪は億劫ではないか、と言われれば、もちろん、それなりに億劫だ。

 だが、今のところ、ばっさり切り落とす気にはなれないままでいる。

 鏡の前で、真っ白なシュシュを外し、下ろした髪を持ち上げてみる。少しだけ先端のぱさついた黒髪が、指の間からさらさらとこぼれ落ちた。

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