07:天の川
「ねえ、そこのあなた! 今日一日だけ、恋人ごっこをしてくれない?」
「は?」
Xの疑問符はもっともだ。偶然その場を通りすがっただけの、初対面の人間相手に言うようなことではないことくらいは、誰にだってわかる。
しかし、Xの袖を引いた女性は、ごくごく真剣な、もしくは鬼気迫るとも表現できる顔でXを見据えて言うのだ。
「どうしても、恋人のふりをしてほしいの。お願い」
「私に、できるようなことであれば……、構いませんが」
「本当? ありがとう! 助かるわ!」
女性は小躍りしかねない勢いで喜びを見せる。
それにしても、『異界』での判断はXに委ねているといえ、安請け合いし過ぎではないだろうか。困っている相手を放っておけない、というXの性質は理解しているつもりだが、詳細不明の依頼を二つ返事で引き受けてしまうところを見ると、いつか、手ひどく騙される日が来るのではないだろうか。
まあ、Xの場合、騙されていたと判明しても「困ってる人はいなかったんですね、よかった」くらいのことは言ってのけそうだが。
ともあれ、喜ぶ女性をじっと観察していたXは、しばしの沈黙ののちに口を開く。
「……しかし、私とあなたとでは、如何せん、恋人同士には見えない、と思いますが」
そう、Xの視界を映すディスプレイから判断する限り、女性はどれだけ上に見積もっても二十歳そこそこにしか見えない。対するXは外見だけなら五十歳前後に見える。実際にはもう少しだけ若いらしいのだが、どちらにせよ、傍から見る限り、親子ほどの年の差にしか見えないのは間違いない。
「そりゃあ、全然わたしの好みじゃないわよ。中年だし、ぱっとしない、冴えない顔だし、髪型もダサいし。本当はすらっと背が高い方が好みなんだけど、あなた、ごつごつしすぎてると思うの。何より、ちょっと足が短いのがいただけないかな」
「全部事実ではありますけど、事実でも、傷つかないわけじゃないんですよ」
Xでも傷つくことがあるのか。いや、ひどい言われようではあったが、それで傷つくらしい、というのは新たな発見だった。私がXのことを、勝手に鋼の精神の持ち主だと思っていたということでもあるが。
「あら、ごめんなさい」
女性はそう言いはしたが、少しも悪いなどとは思っていないような調子だった。その悪気の欠片もない様子を、Xは果たしてどんな顔で受け止めたのだろうか。ディスプレイに映っているのがXの視界である以上、Xの表情を窺えないのが残念だ。
「あなたが引き受けてくれて助かったのは本当よ。好みじゃないのはこの際仕方ないもの。時間もないし、早く恋人ごっこを始めないとね」
「で、恋人ごっこと言っても、何を、すればいいんです?」
Xの声はいつもの通り淡々としていたが、そこにわずかな不機嫌をちらつかせているように思えるのは、気のせいか、否か。
一方、Xのごく些細な感情の動きになどさっぱり気づいていないだろう女性は、Xの手を取り、笑う。
「大した事じゃないわ。手を繋いで、川沿いを歩いてくれるだけでいいのよ」
「それだけ?」
「そう。変なこと想像した?」
女性の笑みに、いたずらっぽい色がちらつく。確かに、「恋人ごっこ」と言われて何を想像するのかは、どこまでも人によるわけで。かくして、Xは女性の問いかけには答えようとせずに、視線を女性から傍らに逃がして言う。
「川って、これ、ですか」
ディスプレイに映し出されるのは、Xの視界一面に広がる、光の流れだった。白い光を基調にしているが、その中には赤や青、黄色に緑、もしくは正しい呼称が思いつかないものまで、ありとあらゆる色が混ざりこんで、流れの中に複雑な紋様を描き出している。
我々の知る『こちら側』の川とはいささか異なる姿をしているが、この『異界』では当たり前のものであるのだろう、女性は不思議そうな顔で「見ての通りよ」と言う。
「でも、昨日まで大雨が降ってたせいで、水が溢れちゃって。……普段は、もっとおとなしい川なの。本当よ」
女性の言う通り、確かにディスプレイの中の川はひどく荒れ狂っているように見えた。いたるところに光の波が立ち、一際強く輝く色が弾けては消える。
Xは視線を持ち上げる。夜――にしてはいやにはっきりと辺りを見通すことができる藍色の空の下、自分が立っている場所から、光の川を挟んだ向こう岸がかろうじて見える。あまりにも川を流れる光が眩く、向こう岸が「ある」ということがわかる程度だが。
「さあ、行きましょう。恋人らしく、仲睦まじくお願いね」
女性がXの手を引く。Xがそちらを見れば、女性は変わらず笑っていた。けれど、その笑顔は、どこか……、何らかの感情を堪えているかのようにも、見えた。
手を繋いだまま、光の川に沿って歩いていく。すぐ傍らで光が渦巻いているが、普段はこんなところまで光が流れてくることはないらしい。一年に一度、この時期だけ。決まったかのように大雨が降り、川が溢れて、この光の怒濤を生み出してしまうのだという。
そう言いながら、女性は、甘えるかのようにXの腕にすがりつく。Xは女性に視線を向けて、ぽつりと言った。
「……近く、ありませんか?」
「だって恋人ごっこだもの。手を繋いでても、離れていたら恋人に見えないでしょ?」
「歩きづらく、ありませんか」
「あら、嫌?」
「そういう、わけでは、ないですが……」
何ともやりづらそうに呟くXには悪いが、なかなか愉快な気分だ。Xがたじたじになっているところを見るのは珍しい。この女性のように、遠慮なくぐいぐい押してくるタイプには耐性がないのかもしれない。これもまた意外な発見だ。
じっと見つめてくる女性から目を逸らすように、激しく流れ続ける川と、その対岸に視線を移したところで……、先ほどとは一つだけ異なっている点に気づいた。私が気づくくらいなのだから、Xも当然その変化に気づいていたようで、じっとその一点を見つめながら言う。
「あちらに、誰か、立っていませんか。……こちらを、見ている、ような」
逆巻く光の波が激しく輝いていることもあり、対岸にぽつんと佇むそれは、単なる人影のようにしか見えない。だが、微動だにせずその場に立ち尽くしている様子は、「こちらを見ている」ように感じられなくもない。
そして、女性に視線を戻すと……、女性の顔から笑顔が消えていた。挑みかかるような鋭さで、対岸の人影を見つめている。
「そうよ。だから、見せつけてるの」
「……どういうこと、ですか」
「あれね、わたしの旦那なの」
「旦那」
Xは女性の言葉を繰り返し、ちらりと対岸の人影を見やる。女性の夫であるという影は、こちらに向けて手を振っているようだった。だが、手を振る以上に何をするでもない。人影と、Xたちとの間には音もなく荒れ狂う光の川が横たわっていたから、その距離が縮まることも、ない。
「いくじなしなのよ、あの人。毎年一度しか会えないのに、川が溢れた程度で『今年は会えない』って言うの。この流れの速さじゃ、カササギだって橋を架けられないからって」
ほら、と。女性の視線が藍色の空に向けられる。Xもその視線を負えば、空には白と黒のコントラストが鮮やかな鳥がふらふらと惑うように舞っていた。カササギ。私も実物を見たことはないが、きっと、そんな名で呼ばれているのだろう、鳥。
なるほど、『こちら側』にもよく似た言い伝えがある。互いに愛し合いながらも天の川によって隔てられてしまった、夫婦星の伝説。七夕の物語。
『異界』は時に我々の知る物語をなぞることがある。果たして『異界』が自然と我々の語る物語をなぞるのか、誰かが『異界』を観測した結果として物語が生まれたのか。卵と鶏の順番を私が知ることはないが、Xによる観測を通して『こちら側』と『異界』との間に見えないつながりを感じることは多い。
ただし、Xには女性の言葉がぴんと来なかったらしく、首をひねっている。Xは妙にものを知らないところがあるから、七夕など、用意された笹に願いごとの短冊を飾る日、程度の認識であるに違いなかった。
とはいえ、女性はXが状況を理解していようといまいと、どうでもよかったに違いない。Xの方を見もせずに、対岸の影を睨みつけ、まくしたてるのだ。
「ほんとに会いたいなら、こんな川、泳いで渡ってくればいいのよ! そのくらいの根性見せなさいよね。毎年ああやってぼうっと突っ立ってるだけで、やんなっちゃう」
「だから、恋人ごっこを、見せつけてやろうと」
「そう。もうあんたなんて知らない、新しい恋人とよろしくやるわ、って見せつけてやれば、少しは焦ってくれるんじゃないかって」
対岸の人影は、激しく手を振っている。その声がこちらまで届くことはないが、それでも、必死に何かを訴えかけるように。
Xはそんな人影と女性とを交互に見やり、口を開く。
「しかし、例えば、それで彼が本当に川に飛び込んで、溺れ死にでもしたら」
――あなたは、悲しいのでは、ないですか。
Xの言葉を、女性は「あの人に、そんな勇気あるわけないわ」と豪快に笑った。笑いつつも、その目はじっと対岸の人影を見つめていた。
「……でも、そうね。そうなったら、悲しくて悲しくて仕方なくなっちゃう。わたし、馬鹿なことしたなって、絶対に後悔する」
「好きなんですね、旦那さんのこと」
「好きよ。決まってるじゃない」
胸を張って言い切る女性に、Xはほんの少しだけ息をついてから、淡々と言葉を続ける。
「なら、もう少し、旦那さんを信じてもよいのでは? 試すような真似は、よくないですよ」
「わかってるわよ、そんなの」
女性は唇を尖らせて、ゆるりと繋いでいた手を離した。離したその手を高く掲げて、対岸に向けて振り返す。激しい光の波の間に垣間見える、大切な人に応えるように。
そして、川向こうに手を振りながら、女性は言うのだ。
「恋人ごっこはもういいわ。でも」
「でも?」
「旦那の愚痴くらいは聞いてくれる? まだまだ、話し足りないのよ」
天の川の照り返しを受けた女性の横顔は、眩しい笑顔で。
「私でよければ、喜んで」
Xが目を細めたことが、狭まるディスプレイの視界から、伝わってきた。
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