06:筆
Ⅹの手を戒めている手錠が、外される。
傍らの刑務官に睨まれながら、寝台の上に腰かけたXは自由になった両の手をぼんやりと見て、それから私に視線を戻した。Xは自分からは口を開こうとしないが、どうして手錠を外したのか、という問いを投げかけようとしていることは、何とはなしに伝わってくる。
「今日は、少し、書いてほしいものがあって。手錠を付けたままだと、書きづらいでしょう?」
何枚かのプリントを挟んだボードを、ボールペンと一緒に手渡す。Xは小さく頷いて、ペンを右手に握り、ボードに向き合う。
プリントには、『潜航』に関わるいくつかの質問が並べられている。普段、Xとは口頭でやり取りするため、筆記で質問に答えさせるというのは、今までになかったことだ。しかし、時には口頭では聞き取りづらいこともある。
「答えづらいものがあれば、飛ばしてくれて構わないわ。ただし、正直に答えてくれる?」
とはいえ、Xが嘘をついたとしても我々がその真偽を判定することはできない。だから、無意味な念押しといえば、そう。その一方で、Xが嘘をつくことはないだろう、という妙な信頼もある。彼が嘘や誤魔化しを極端に苦手としているのは、これまでの試行で明らかだったから。
Xは私の言葉にもう一度頷いてみせると、さらさらとペンを走らせる。一つ一つの質問はそう難しいものでもないからだろう、筆を動かす手が止まることはない。
この分だとそこまで時間はかからないだろうが、私にじっと見られていてもやりづらいだろう。視線を外し、監視は傍らの刑務官に任せる。
元より、Xが我々を害するとはまるで思っていないのだが、警戒しているポーズくらいは取らねばなるまい。どれだけ温厚で無害そうな態度を取ろうとも、Xが容易く人を殺すことのできる人物である、というのは事実であったから。
「あれですか、上への提出資料」
声を潜めて語りかけてくるスタッフに、「そう」と苦笑する。
我々のプロジェクトは、国家主導で、かつ、秘密裏に行われているものだ。一般の人間は『異界』の存在など夢物語としか考えていないし、私もそれでよいと思っている。『異界』の存在が表沙汰になれば、必ず社会は混乱するだろう。今はまだその時ではない。
だが、確かに『異界』は存在しており、水面下では『異界』に呑まれる、あるいは『異界』からの来訪者に何らかの危害を加えられる者が後を絶たない。故に、『異界』の情報を収集するという我々のプロジェクトは、推し進めてゆくだけの価値がある、と判断されている。
とはいえ、国の金を使ったプロジェクトである以上、我々は国に対して常に一定の成果を見せ続ける必要がある。そして、その『成果』とは、誰の目にも見えるデータである必要がある。
というわけで、ここに来てXにも協力してもらう必要が出てきたのだ。実際に『潜航』している異界潜航サンプルがどう『異界』を捉えているのか、一つのデータとして示すために。
そうして、スタッフたちと言葉を交わしながら作業をしているうちに、Xの手が止まっていることに気づいた。終わったら声をかけるように――あらかじめ発言を許可しておくべきだった。Xはそういうところでは融通を利かせようとしない。いっそ頑ななまでに。
「終わったかしら?」
私の問いかけに、Xは頷きを返し、ペンとプリントを挟んだボードを差し出してくる。受け取ってみれば、想像以上に丁寧な筆致で質問に対する回答が記されていた。
一つ一つの文字は妙に角ばっていて、曲線であるべき部分を直線的に書く癖があるらしい。その上で、それぞれの文字の大きさにはほとんど変化がなく、一直線に文字を並べているため、読みづらさはない。Xらしい筆だと思う。何をもって「Xらしい」と思っているのか、自分でもうまく説明はできないが。
「ありがとう、きちんと読ませてもらうわ。それと、発言を許可するから、ひとつ、いいかしら」
Xは意識的にだろうか、ゆっくりと瞬きしてから「はい」と返事をする。
「随分『潜航』の期間も長くなったし、私は、あなたのプロジェクトへの貢献を評価している。だから、これからの『潜航』を円滑に進めるためにも、上と話をする時に、あなたからの希望があれば相談してこようと思うのだけども、どうかしら」
希望、と。低い声がXの唇から漏れる。何一つ代わり映えしないぼんやりとした表情から、彼の考えを読み取ることは、いつだって難しい。
「もちろん、外に出すのは難しいし、仮に刑を軽くしてほしいと願ったとしても、私たちにはどうしようもない。ちょっとした便宜を図ることくらいしかできないけれど、それでも、希望を言うのは自由ってこと」
何せ、我々は死刑囚であるXを「使う」ことを許されているだけの身だ。Xの立場をどうこうできるわけではない。できることと言えば、そう、ほんの少しだけ、「この場にいる間」のXの待遇を考えることくらい。
私の問いかけに対する思考を巡らせていたのか、しばし、虚空に視線を泳がせていたXは、やがてこちらに視線を戻して、ごくごく真面目な表情で言った。
「特には、ありませんね」
「本当に?」
「ここでの生活は、良いものです。暮らすのに困らず、仕事があり、必要とされている」
これ以上を望むのは、贅沢というものですよ、と。
Xは穏やかに、けれど、きっぱりと言い切ってみせるのだ。
無欲、といえばそうなのかもしれない。だが、私はそこにXの致命的な欠落を感じるのだ。人として大切なものをすっかり取り落としてしまったような――もしくは「自ら捨て去った」かのような、うすら寒さ。
寝台の上からこちらをじっと見つめるXの視線を受け止めて、そっと息をついて。ただ、ただ、傍らの刑務官が再びXの手首を手錠で繋ぐのを、眺めることしかできないのだった。
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