05:線香花火

 ――世界を、作っている。

 Xの目の前にわだかまる黒い塊のようなものは、そう言った。果たしてその発言が音声によるものであったのかも、私にはわからない。ただ、Xの聴覚と接続したスピーカーからその不思議な声が聞こえた以上、Xには音声のように感じられていたはずだ。

 奇妙な『異界』だった。『異界』である以上『こちら側』とは必ず何かが異なる、といえば当然そうなのだが、今まで我々がXの目を通して観測してきた『異界』の中でも、ひときわ奇妙だと特筆して差し支えないだろう。

 そもそも、Xが降り立った場所をどのような言葉で表現すべきか、私には適切な語彙が思い浮かばない。

 Xを潜航させる『異界』は、事前にXが「存在できる」かどうかテストを行った上で潜航実験を開始する。『異界』に潜航した瞬間にXの意識が消失したら話にならない、そういうことだ。だから、今、Xの視界を通したディスプレイに映っている場所は、我々の観点では「存在可能な」場所ではある。

 ただ、辺りに広がるのは、一面の闇にきらきらと何かが瞬く、私の知識で例えるならば宇宙に似た空間であり、闇の中でありながら不思議とX自身の姿は光の中と同じようにくっきりと見て取れた。サンダル履きの足元は虚空を踏んでおり、それでいて浮かぶことも沈むこともなく、その場に立ち尽くしている。

 そして、ちりばめられた光を飲み込むかのごとき巨大な黒い塊が、Xの目の前にあった。Xの目を通す限り「黒い」としか認識できないそれは、しかし、輪郭が確かに脈動しており、生命を持つ何かであることを窺わせる。

 その黒い何かは、Xという招かれざる客に気づいたらしく、語りかけてきた。

 ――客人とは珍しい。

 今まで聞いたこともない声だった。頭の中に直接染み渡るような、けれど、確かにスピーカーから聞こえているはずの、声。

 姿かたちこそ異様だったが、言葉が通じる相手であるらしいことは幸いだったし、Xも同じことを考えていたに違いない。『異界』においては、言語が通じないことで問題が生じることが多々あったから。

 Xは断りのない訪問を詫び、いくつかの当たり障りのない言葉を交わし、それから問いかけたのだ。ここで、何をしているのかと。

 世界を、作っている。そう答えた黒い塊の内側に、ぽつり、小さな光が生まれる。赤みがかった色合いで、火の玉のようにも見える。

 私はこの通り『異界』を研究している身であり、世界が無数に存在しうることを知っている。『こちら側』から称するならば「彼岸」、「あの世」、「天国」に「地獄」、「平行世界」、エトセトラ。呼称こそ知られていても、現実のものであるとは信じられていない別の世界を捕捉し、観測するのが我々の仕事であるわけだ。

 だが、それら『こちら側』とは異なる世界――『異界』がどのように作られているのか。

 その瞬間を観測したことは、今のところ、一度もなかったはずだ。

「世界、ですか……」

 Xは不思議そうに言う。にわかに信じられなかったのだろう。世界などという巨大な概念が、目の前で形作られようとしているということが。

 そうしている間にも、黒いものの中に浮かんだ光の球体は、少しずつ膨らんでいた。それは人の頭ほどの大きさに見えたが、果たしてXの視界に映っているものが、見た通りのサイズであるのだろうか。それすらも、私にはわからない。

 ――これは、世界の雛型。まだ何もない、ただ可能性だけがある。

 脈動する黒い塊は、声ともいえない声で告げる。

 ――最初は、全ての可能性がある。どのような世界にでもなれる。

 だが、と。声が響いた途端、浮かぶ球体から一滴の光が滴り落ちた。否、滴り落ちるだけではなく、球体から小さな光が外側へと放たれる。最初は小さな雫のようだった光は、やがて大輪の花のような形に弾けては消えていくようになる。

 その光の弾ける様子は、そうだ、幼い頃に手にした線香花火によく似ていた。

 ――無数の可能性の中から、ひとつを選び取れば、変化が始まる。一つの変化はさらなる変化を生み、それを押しとどめることは、できない。

 世界の雛型であるという光の玉は、黒い塊に抱かれて、変質を始めているのだと思う。無数の光の花を咲かせながら、言葉にはできない何か――声の言う『可能性』とやらに導かれて。

 しかし、結局のところ、私も、そしておそらくはXも、言葉の意味を理解してなどいないのだ。世界と呼ばれるものがどう形作られるのかも、目の前の黒い塊が一体何なのかもわからないまま、ただ、ただ、遠い日の花火のように反応を続ける光の球体を見つめているだけ。

 だから、だろうか。

「……きれいですね。それに、少し、懐かしい心地がします」

 Xのごく素朴な感想が、すっと胸に沁みた。

 Xにもあったのだろうか。闇の中に、ちいさな火を灯した経験が。いつかは必ず地に落ちる線香花火の、弾ける光を眺めた経験が。

 すると、黒い塊は言う。

 ――客人も、ひとつ、作ってみるか。

 それが、さも当たり前であるかのように。

 この存在にとって、世界を作るということは、我々の生活に伴う行動――例えば料理を作るのと同じ程度の、ごく気軽なものであるのかもしれなかった。私には到底考えも及ばないことではあったが。

 Xは片目だけの視界で、黒い塊の中で今もなお弾け続ける光を見つめて、ゆるりと首を横に振る。

「いえ」

 きっと貴重な体験になるとは思いますが、と言いながらも、Xの声は淡々として。

「私は、きっと、すぐに、壊してしまいますから」

 ぽつり、落とされた言葉に、背筋がぞくりとした。

 壊すことしかできない。それが、幾人もの人間をその手で殺害し、結果として自らの人生をも壊し尽くしたXの口から出た言葉である、ということを、突き付けられる。

「きれいなものを、きれいなままにしておけるなら。それは、きっと、幸せなことですが」

 私は『異界』におけるXの表情を窺うことはできない。このディスプレイに映る光景がXの視界である以上、当然だ。

 ただ、スピーカーから聞こえてくるXの声は。

「私は、きっと、壊さずにはいられない」

 普段、ほとんど心情を露わにしない彼には珍しく、ひどく、感傷的に聞こえた。

 そうか、と。不思議な声はそれだけを言った。Xの言葉を肯定するでも否定するでもなく、Xが「そう」であることだけを受け入れた、一言。

 Xもまた、それ以上何を言うでもなく、産声を上げる代わりに光の花を咲かせ続ける、新たな世界を見つめていた。

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