二一話 あべのハルカス美術館の円空展 その三

 今回は、第三章「神の声を聴きながら」です。あらましを書いておくと、最初は、円空の自坊である弥勒寺(岐阜県関市池尻)の二体の像と血脈。

 次が弥勒寺の本山でもある園城寺(三井寺)のもの。

 そして、暫く関東時代のものが続きます。そして、第三章を締めくくるのは、飛騨の入り口とも言われる岐阜県下呂市の温泉寺に伝わる像となります。

 しばし、お付き合い下さい。


 まず、円空の自坊である弥勒寺のことを少し。壬申の乱(六七二年)で功績のあった美濃地方の豪族・牟義都(むげつ)氏の氏寺として創建されたのが最初です。数度に亘る荒廃と中興が続きましたが、円空が弥勒寺の西にある白山神社で円空像を造像していた時は荒廃していた様です。


 円空が生きた時代は、新たに寺を建てることは許されず中興(再興)することが許されていたそうです。

 これも想像でしかないですが、円空が荒廃した弥勒寺を見てこれを中興することを夢見たのではないかと考えます。


 円空によって中興された弥勒寺が、いつなのかははっきりしませんが、大正時代の火事を乗り越えて今でも続いています。 

しかし、弥勒寺にあった全ての円空像群や自筆の経典などの文書類も一切が消失してしまいました。


 現在、お寺に残されている円空像や文書類は、弥勒寺境内の小祠堂にあったものや縁の方からの寄進に依るものとのことです。


 最初に紹介するのは、阿弥陀如来・観音菩薩です。変わったお名前ですよね?

この像は、化仏があることから聖観音だと分かるのですが本来定印であるはずの印相が「阿弥陀定印」になっています。

このような一つの像に複数の機能(神仏の要素)を持たせたものを「一像多機能」という言葉を父が作り出し、今では使われるようになってきています。


 本展でも、一像多機能の像は他にも出展されており、埼玉県春日部市の観音院からは毘沙門天-龍神がそれにあたります。


 次は、同じく弥勒寺の伝秋葉神です。円空が彫る秋葉神の多くは、烏天狗の形が多いので先に挙げた観音院から出展されている護法大善神のように嘴が尖った鳥頭を持つ人身の形でのものが多いのですが、こちらはどちらかと言うと円空特有の鰐口(顎)を有することからどちらかと言うと龍王や龍神の類を連想させます。先に挙げた観音院の毘沙門天や第四章で出てくる千光寺蔵の八大竜王と比べてみてください。

秋葉神にしても龍王や龍神にしても火伏や水に関わることから、どちらも火除けとして祀られたのではないかと思います。


 そして、弥勒寺文書です。この文書は、「仏性常住金剛宝戒相承血脈」と言い、延宝七年に園城寺の師僧の尊栄より与えられたものを写したものと言われます。


 この「延宝七年」は、円空にとってのターニングポイントになった年と言われます。

つまり、白山神からの託宣を得、郡上市美並町の幾つかの像に「是廟有 即世尊」と書き記し、また、梵字にも変化が生じます。

この後、円空は関東に向かうことになります。


 次の展示は、園城寺(滋賀県大津市、三井寺とも言う)蔵の善女龍王七体(出展は六体)です。以前、日曜美術館で俳優の井浦新さんが園城寺を訪問され、同像群を拝観されているので、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか?


 善女龍王 一種類のみで最多の所蔵数では園城寺に勝る場所は他にはありません。では、何故園城寺に善女龍王が七体あるのかが不思議です。また、その内の一体には背面に小さな善女龍王が貼り付けられているので、それを入れると八体になります。その謎も未だときあかされていません。


 これだけの数の善女龍王が園城寺にあるにも関わらず、構造上問題の為か、龍の首から上が全て破損していると言う珍しい例であるとも言えます。


 さて、ここからは円空の関東時代のものが並びます。最近の研究では、円空の関東滞在は延宝八年ごろからの約四年と考えられていますが、往復の経路など、まだハッキリと分かっている訳ではありません。


 本展での関東最初の像は、埼玉県春日部市の観音院からの七体です。聖観音菩薩、不動明王、毘沙門天-龍王、蔵王権現、役行者、護法大善神、徳夜叉大善神ですね。

 この七体については、当エッセイの第十三、十四話をご覧下さい。


 その次は、栃木県日光市の月蔵寺蔵の閻魔大王。元々は、月蔵寺が管理する野口薬師堂に祀られていたとのこと。以前の展覧会で拝見したことはあるのですが、寄託先へ記録撮影にお邪魔したことが無いのでそれほど詳しくはありません。


 よくよく知られた閻魔大王のお姿がモデルなのでしょうか?縦筋を幾つも彫られた冠を被り、両目の周りに憤怒相を意味する刻線が刻まれています。口もなんだか笑っていなさそうなんだけど、奥の方に微笑みが少し混じっているかの印象です。いや、なかなか迫力を感じます。


 そして同じ日光から清瀧寺からは、不動明王、制多迦童子、矜羯羅童子の不動三尊が出展されています。この三尊も割と展覧会で出開帳がされることの多い像ですね。


 不動明王の後背は、木成りを活かしており、面白いものになっています。


 この不動三尊の中でも、注目すべきは矜羯羅童子でしょう。

円空の彫る矜羯羅童子の多くが、僧形で合掌をしています。一見、善財童子か?と思わせますが、相方の矜羯羅童子が必ずいます。


 そして、清瀧寺の矜羯羅童子は、合掌の手の位置が面白いと思います。

何となく片手を上げて、やぁ!と言っているかのように見えてきませんか?


 関東から東海地方に何時円空が戻ったのかは、定かではありません。

彼が関東に滞在した期間は、移動時間を含めて約三~四年と考えられています。

関東で最初に年号入りの観音菩薩が茨城県笠間市にある月崇寺で作られたのが延宝八年。延宝九年には、群馬県高崎市にある貫前神社で大般若経を見終わり、奥書に自分の生国と誕生年の干支を記しました。栃木県日光にある光樹院で修業をし、師僧の高岳からサラサラ童子法などを請けたのが天和二年です。


 関東から戻った円空の次の足跡が分かるのは、高賀神社(岐阜県関市洞戸町)、鳥屋市不動堂(岐阜県関市)、熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)、荒子観音寺(愛知県名古屋市中川区)です。

 残念ながら、鳥屋市不動堂にあった21体の円空像は全て盗難に遭い、戻っていないのが悔やまれます。


 さて、展示に話を戻しますと、第三章の終わりは岐阜県下呂市にある温泉寺です。

こちらには、円空と木喰が訪れたお寺として知られています。四体の円空像と一体の木喰仏を所蔵されています。


 温泉寺の像は、阿弥陀如来、善財童子、善女龍王、宇賀神の四体が出展されています。


 阿弥陀如来は、宝髪が肉髷であることからこの像が如来だと分かります。

この温泉寺の阿弥陀如来は、非常にオーソドックスな像なので、一見どの如来なのか種別に迷うことがあります。阿弥陀如来坐像であれば阿弥陀定印を組んでいることが多く、薬師如来は薬壷を持っていることが多い。大日如来でも金剛界では智拳印を組んでいますが胎蔵界の方では法界定印です。釈迦如来立像だと施無畏印と与願印であることも。ここで書き方に疑問を持たれた方もいらっしゃると思いますが、手先が衣に隠れたように表現されているものもあり、背面の種子(梵字)で判断しなければならないこともある訳です。その種子さえない像は、「如来」とだけ記されることが通常です。


 善女竜王と善財童子は、それぞれの背面に「善女竜玉」と「善財童子」と墨書されています。なぜ円空は全ての善女竜王の「王」を「玉」と書いているのかは不明です。彼なりの理由があるとは思うのですが。また、善財童子は、僧形で合掌をしており、善財童子と記されていることからこう言った様式の像の判断材料の一つとして考えられます。


 第三章最後の像は、宇賀神です。元々、古来からの日本国有の神様で穀霊神(稲作の守護神)のような立場で考えられます。人面(人頭)蛇身のお姿で、とぐろを巻いています。日本では天台様式の弁財天と習合し、弁財天の頭部に冠のように宇賀神が乗る宇賀弁財天というものも造像されています。掛け軸で描かれた宇賀神は、やや怖い感じもするのですが、円空の彫った宇賀神は可愛い感じがします。


以上、ここまでが第三章の見所です。


推敲がまだですが、早く出します。

誤字などあれば、後日対応します。ご容赦ください。

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