六話 千光寺のこと(改稿済み)
岐阜県高山市丹生川町下保に袈裟山千光寺という真言宗の古刹がある。
袈裟山の中腹にお寺がある。
開山は、最近、漫画やアニメの「呪術廻戦」でも有名になった両面宿儺(すくな)、開基は嵯峨天皇の皇子であった真如親王(弘法大師・空海の十大弟子の一人)だ。
戦国時代には武田軍が高山入りをした際に要衝として千光寺を攻め、その際、切腹した武士の魂を慰める為に本堂の血天井にした話や梵鐘が真っ赤に灼熱し、攻め手の武田軍を牽き倒したと言う伝承が残る。
僕が最初に千光寺をお邪魔したのは、十七歳の高校二年生の時だ。
長谷川公茂・二代円空学会理事長に紹介され、夏の寺子屋のリーダー役として手伝うことになっていたようで、前ニ泊と後一泊を含め五泊六日だったと思う。
まだ当時は国鉄高山本線の高山駅で、乗鞍岳行きのバスに乗り、町方バス停で降車。
あとは、ひたすら田舎道と山道を歩き千光寺に到着する。
あの頃は、まだ山道は舗装されておらず、砂利道で真夏だったから体力を奪う奪う。
その当時は夏の飛騨は今ほど暑くなかったのだが、着いたころには汗でぐっしょりの状態。
多めの荷物、不案内な道行だったので一時間半程歩いたのではなかったかと思う。
千光寺の円空仏寺宝館を初めて訪れたのは、千光寺に到着して二日目だったと思う。
同じ村内(当時、丹生川村)の曹洞宗のお寺の若奥様がこの時は寺宝館の受付を
手伝いに来ていた。
母方の従姉と同じ名前だったので今でもよく覚えている。
現在の配置とは違い、その当時は入口を入って正面に立木仁王の内の一体があり、これのみが撮影を許されていた。
今は、館内の撮影は一切が許されていない。
以前は、順路は今とは逆で、受付を済ませ右へ折れ、少し進むと両面宿儺が出迎えてくれた。
その次に円空の肖像画の複製画、木端書、賓頭盧像が続き、三十三観音像があった覚えだ。
いや、賓頭盧像と三十三観音像の間に金剛神一対があったかもしれない。
この辺はうろ覚えになってる。申し訳ない。
両面宿儺は、元々、飛騨の豪族であり飛騨の人々からすると英雄でもあり、特に千光寺だからなおさらなのだろう。
両面宿儺はイメージは、二人の人物が背中合わせに結合しているのを想像して頂けると良いだろう。
時の朝廷に叛逆し、武 振熊(たけのふるくま)によって討伐されたと伝わる。
円空の彫った両面宿儺は、後ろの顔を向かって右肩に彫り、更に後ろ側の両手を両肩に配するデザイン力に優れる。
正面のそれぞれの手には手斧と槌が持たされている。
円空の彫ったこの像は背面に十五功徳天と書かれており、両面宿儺として彫られたのか更なる検証が必要なのかもしれない。
次に円空の肖像画だが、軸の裏側に江戸時代後期の国学者で高山に住した田中大秀が文化二年(一八〇五)に弥勒寺(岐阜県関市池尻)にあったものを複写し、千光寺に収めた旨が書かれている。
円空が窟の前に坐る姿が描かれており、頭に五仏冠を被る。
存外、ふくよかな姿で描かれている。
また、軸の上部には、円空が木端で書いたと言われる「一心」が書かれている。
このような書は、「木端(こっぱ)書き」として知られる。
残念ながら、弥勒寺にあった原本は大正九年(一九二〇)の火事で灰になっているので、唯一残る円空の肖像画として有名である。
その隣には、木端書き「帰一」がある。
千光寺へ毎夏に投宿する様になってお会いした、宮垣勝美館長(元々は高山市内で学校の先生をしておられた)が「帰一は、始めに帰る、初心に帰る。そんな意味合いですよ」と教えて下さった。
宮垣館長との円空談義は本当に尽きることがなく、開館中の時間でお客さんがいない時は色々と意見を交わしていた。
金剛神一対は、高さ二メートルを超す立木仁王に次ぐ高さを誇る。
金剛神は、後に名付けられた尊名であり、本来のものではないと言われる。
ただ、同様の像が現在、飛騨高山まちの博物館にも寄託展示されているのでご覧頂ければと思う。
ただ、他の護法神の系統よりもずば抜けて大きいので、梁に使う様な材を二つ割にして造像したのではないかと思う。
果たしてどんな意図があったのか。
その隣には、三十三観音と名称される観音像群がある。
非常に簡素な作りで確か丸太を三つ割か四つ割りにして造像したと聞いた覚えだ。
この像も小島梯次・円空学会理事長(三代目)に以前お聞きしたところ、「元々は五十一体あったと聞いています。麓の村に病人が出たら貸し出して、治ったら戻ってくるということがあったらしい。」とのこと。
昭和六三年(一九八八)夏、岐阜県羽島市で「羽島円空展」(円空フェスティバル)という大イベントがあった際、羽島市教育委員会のHさん他が千光寺を訪ねられ、大下大圓住職に貸し出し依頼をされていた三十三観音の内の二体を取りにみえたことがあった。
宮垣館長がお休みで代わりに応対し、事前に資料で頂いていたものを渡すと、後に会場でH氏から「まさかお願いした像が、間違われずに来るとは思わなかった!」というのを聞かされたのは、今では良い思い出である。
その後は、小像が続く。
千光寺には、八大竜王のほか、難陀(なんだ)竜王、跋難陀(ばなんだ)竜王の三体の像がある。
岐阜県災異誌によれば、円空が飛騨の地を訪れた時期に相前後して、飛騨の一帯は天候不順に襲われていたらしい。
そのこともあり、天候が落ち着き作物の実りが良いものになるようにと願いを込めて造像したのだろうか。
次に紹介するのは、弁財天及びニ童子像。
この三尊の収められた厨子の蓋の裏側に「貞享二年五月吉祥日」と朱書きされている。
貞享二年は一六八五年である。この日に開眼供養され、仏像として出来上った日を指すのか、それとも単に厨子が出来上がった日を指すのか、千光寺に奉納した日なのかは判らない。
が、この弁財天が元々は高山市内の民家や商家に与えられたもので、後に千光寺に奉納されたものということは間違いないように思う。
そして、不動明王、制多迦童子、矜羯羅童子の三尊形式である。
中尊である不動明王は、頭上に頂蓮、尊顔横の辮髪、憤怒相ではあるが口角が上がっているので笑っているように見える口、その口からは上下に伸びる牙が見える。
右手には知恵の利剣を持ち、左手は下ろした拳に索が握られるように穴が開けられている。
円空が基本である儀軌を外さずに造像した証拠でもある。また、上半身と下半身で緩いS字状に軸線がずらされており、これが何となく「動」の様にも感じられる。
魚の鱗状の袴を履き、裸足で岩座の上に乗る。そんな感じである。
脇侍の制多迦童子は、他の作例とほぼ同じく、怒髪、憤怒相、宝棒を持つと言う特徴である。
もう一方の脇侍の矜羯羅童子は、他の作例とは違い、被り物をしているようにも見える。
多くのものは僧形で合掌をしている像が殆どだが、何故、千光寺のものだけ?感が否めない。
よくよく調べてみると、冬の間、頭痛防止の意味合いで帽子を被ることはあるのだそうだ。
どことなく、すまし顔で微笑みを浮かべる姿が何とも言えない。
そして、一対の仁王像がある。近世畸人伝の円空の挿絵に使われているアレである。近世畸人伝には「枯れ木を用いて作れる二王あり」と書かれている。
NHKのドラマ「円空」を観たあとの宮垣館長との円空談義は熱を帯びた。
何故なら、ドラマの中では丹波哲郎扮する円空は、生木に仁王を彫っていたからだ。
後に羽島の円空仏祭のパネル・ディスカッションの質問コーナーでこの件を諸先生にぶつけてみた。
答えは、生木に彫ったのであろうとのことだった。かなり意外なことであった。
このようにして、僕と千光寺との関係は始まった。
宮垣館長とも付き合いは長かったし、お寺を手伝いにいらしてた田屋さんや岩腰さんとも気さくに話をさせて頂けたのは楽しい思い出である。
今でも、時折、妻を伴って遊びに行くと住職夫妻は喜んで歓待してくれる。
さて、今度はいつ出かけるかな。
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