五話 もう少し、詳しく円空のことを (出生地のこと);(改稿済み)
四話で円空の出生地が「美濃国」(現在の岐阜県南部)であることは、貫前神社旧蔵の大般若経の断簡に記されていたことは書いた。
しかし、美濃国と言っても広い。
昭和の円空ブーム(だいたい昭和三五年に始まったと言われている)以前の江戸時代後期の資料を読んでいくと、
・「近世畸人伝」(伴蒿蹊・寛政二年(一七九〇))には、「僧圓空は、美濃國竹ヶ鼻といふところの人也。」と書かれている。
・「浄海雑記」(全精法印・荒子観音寺の記録帳、文久三年(一八六三))には「西濃安八郡中村産也」と書かれる。
・「祖師野薬師堂棟札」(文政九年(一八三六))には「当國竹ヶ鼻在ノ生マレニシテ」と書かれている。
関ヶ原の戦い(一六〇〇)頃までは、羽島には竹ヶ鼻城があり、その後、廃城になっている。
今で言うランドマーク的なイメージから竹ヶ鼻を用いたのだろうか。
また、昭和以後の円空関連の書籍には安八郡中村説を一言下に否定する向きもあるが、単に出生としただけに過ぎない地であれば、痕跡が無い場合もあるのではないだろうか。
なにせ、この地は木曽川、長良川の支流が千々に乱れ、直ぐに大水になっていたらしいから寺院の過去帳など貴重な資料がない場合も多いと聞く。
そういう訳もあり、このあたりは一考の余地があるかもしれない。
以上のことから、江戸時代後期では円空は羽島市やその周辺に出生したと考えられた。
また、
・「金鱗九十九之塵」(桑山好之・天保〜弘化(一八三〇〜一八四七))には、「西美濃安八郡中村の住人、加藤与左衛門といへる人の孫なりとぞ」と書かれており、円空の血縁者が安八郡中村の周辺に住んでいたことを想起させる。
金鱗九十九之塵において誤認されることが多いようだが、著者の桑山好之は江戸時代後期に名古屋に住んでいた車大工(大八車などを手掛けたらしい)である。
先祖は戦国期に武士として働いていたことがあるが、徳川の世になり武士の道を辞めたことが同書にも書かれている。
また、桑山家にも円空像があったようだ。このことも書かれている。
これまでは、江戸時代後期に書かれた文献資料を基にまとめてみた。
次に昭和三十年代以後の出生地の説を見てみよう。
令和の今の時代、円空出生地は大きく分けて羽島説と美並説の二つが挙げられる。それぞれの説を考えてみよう。
我が家にある第一次円空ブームの円空関係の一番古い書籍は、昭和三六年(一九六一)に三彩社から発売された「円空・人と作品」(写真・後藤英夫、文:江原順)である。
その本文三ページに「生地は円空にかんするほとんどの文書でそうなっており、竹ヶ鼻ということを否定する根拠は、いまのところない。」と書かれている。
この本に依れば、まだ貫前神社旧蔵の大般若経断簡は見つかっていないのかハッキリと生年の記述は見当たらない。
また、他の文書に書いてあるからと円空の出生地を竹ヶ鼻(羽島市)に追認する形をとった。
古書として購入した「円空と名古屋」という非売品の本がある。名古屋市文化財叢書の一冊で赤い表紙がとても印象的。
昭和三七年(一九六二)の刊である。
その四ページには「出生地は羽島市説が最も有力だし、」と書かれている。
昭和四八年(一九七三)、円空学会が創立され二年経ち、谷口順三・円空学会初代理事長が求龍堂からハードカバーの「円空」を出された。
写真は、後藤英夫氏。後藤氏は当時の円空写真の第一人者である。
赤いカバーに黒の太字で円空とダイナミックに描かれているのが印象的。
この本の一四三ページ第三章「おいたち」の冒頭に「彼は寛永九年(一六三二年)笠松代官所支配の天領、美濃の国中島郡中村(羽島市上中町)で生まれた、と推定されている。」と書かれている。
「円空 羽島市の円空仏」は昭和五一年に羽島市円空顕彰委員会から刊行された。
著者は、長らく羽島市の郷土史や円空を研究された鈴木正太郎先生。
残念ながら、先年亡くなられたのが残念だ。
正太郎先生も両親と仲良くしていただいた恩師の一人である。
円空学会の研究会だったか総会だったか記憶が定かでないが、資料館にお邪魔した際に展示ケースの中に入れて頂いてとても感激した覚えがある。
この本は、父が円空詣を始めた最初の頃に中観音堂で購入してきた覚えである。
この本には、中観音堂が現在の姿になる前の木造だった際の貴重な写真が載っている。
また、羽島市内における円空顕彰の歴史や展開も垣間見ることができる貴重な本と言える。
同書十一ページから一二ページにかけて書かれているが、昭和五一年の頃には既に羽島で生まれたのは一般的な説になっているのが判る。
「円空仏」は、長谷川公茂・円空学会に代理事長の著作だ。
保育社からカラーブックスの一冊として昭和五七年(一九八二)に出版された。
おそらく、円空仏を更に高名にした本だと思う。一部写真を後藤英夫氏の提供を受けたが、ほぼ全ての写真を長谷川公茂氏が撮影されている。
その一〇六ページには「しかし、今日では円空の出生地は、岐阜県羽島市上中町(中島郡中村)とされている。」と書かれ、その理由も書いているがここでは省略する。
その同年、谷口順三・円空学会初代理事長が「うきよ咄 円空仏」を名古屋豆本の一冊として出版される。
その一五ページから一六ページにかけこれまでの羽島出生説に疑問を投げかけている。
「彼の出自を岐阜県羽島市上中町とした仮説は有名で殆ど定説化されています。しかし円空研究が進むにつれ、仮説の見直しが始まっています。出自についても・・・(中略)・・・流動的なものを感じたのであります。」と述べている。
とここまでは、羽島市出生説について書かれている書籍についてまとめてみた。
一方、昭和五十年代半ばになって、当時の岐阜県郡上郡美並村(現在の郡上市美並町)が円空の生誕地として名乗りを挙げた。
昭和五九年(一九八四)に美並村村史下巻が当時の岐阜県郡上郡美並村から発刊される。
また、翌年の昭和六十年(一九八五)には、同書の要点をまとめた入門書といえる「円空と美並村」が発刊される。
両書の内容はほぼ同じであるため、「円空と美並村」の方を抜粋して書いておくと「円空は寛永九年(一六三二)美濃国郡上郡の南部瓢ヶ岳山麓(美並村)で、木地師の子として生まれたと推定される。」としている。
また、美並村広報に掲載された池田勇次先生の六八回にも上る記事や研究の成果をまとめた本が平成一二年(二〇〇〇)に美並村から発刊された。
「美並村と円空」と言うタイトルである。
円空の出生地に関しては、美並村であり、木地師の子として生まれたと同一の書き方がされている。
木地師の子とする出自の部分は、またいずれの機会にでも。
ここまでの文献資料を並べてきたが、皆さんはどう考えるだろうか。
少なくとも僕は、円空の自筆資料(一次資料)である貫前神社旧蔵の大般若経断簡が全てであり、それ以上の資料(円空自身の手で地名が具体的に出生地が書かれた)が見つからない限り「美濃の国に生まれた」とするのが正解の気がする。
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