キラキラ

 天地ともに穏やかに凪いで、刷毛で掃いたような雲が空を走る夏の朝。

 たつみは、ゆきを庭の池のほとりに連れ出した。

 昨夜地面を濡らした雨が陽射しに温もり、あたり一面に草のかおりがたちこめている。生い茂る緑で池のふちもあいまいだ。幸はうっかり落ちないよう用心して、水辺から距離をとった。

 かねてから池には入らないよう巽に言いつけられていたが、そのときだけは、常とは違う切実さが込められていたように思うのだ。彼の瞳によぎる影の揺らぎを見逃す幸ではなかった。ただしたがうのは気に入らないけれど、巽を悲しませたいわけではない。そう、あの影はきっと「かなしみ」だったのだと幸は考える。

 それぞれ手頃な石に腰掛けて、ふたりならんで池を眺める。蜻蛉が水面をつつき、蓮の葉を持ち上げる何かがいて、あめんぼは小さな輪を連れて遠くへ行ってしまう。静かだけれど、生き物の気配に満ちた庭。こうしてただ、同じものを見て過ごす時間のなんと安らかなことだろう、と幸はしみじみ噛み締めていたのだが、実は巽はそれどころではなかった。

 もう決めたはずなのに、なかなか踏ん切りがつかない。

 いよいよ池の秘密を明かすべきだと、幸の意思と向き合うときがきたのだと、わかってはいる。社に籠められていた娘、ほかに生きる道はないと悟りながらも他の生への憧れを持ち続けた娘。彼女の前に敷かれているのは決して一本道などではないと連れ出したのは巽自身なのに。

 決められた道をもたない幸は、巽を選ばないことだってあるのだ。

 喜ばしいことではないかと理性は言う。どうでもいいからそばにいてくれと本心が喚く。

 小さな亀が池に飛び込むわずかな水音。

「ゆき」

「なあに」

 彼女は池を見つめたまま。その気配のやわらかさに、用意していた言葉をそっと預けた。

「お前は本当は、いつだって里に帰れたんだ」

 わずかにこちらを向いた横顔に、池の中心を示す。幸が視線を戻すのを待って、続ける。

「俺がこの池に近づくなと言ったのは、ここが帰り道になるからだ。自らの意思で出ていったものを、無理に連れ戻してはならないからな。教えてしまったらそれまでだと、ずっと思っていた」

 幸は相槌も打たず、表情も変えず、ただ水面の一点に視線を注いでいる。

「だが、騙しているようでずっと気がかりだった。お前を解き放ったつもりで、こんどは俺の手のなかに閉じ込めているだけではないかと。道があるのにないように振る舞うのは卑怯というものだろう」

「ふふ、そうね」

 なぜか楽しそうな返事がかえってきた。巽は面食らって、それまで準備していた台詞がみんな飛んだ。いつの間にか、幸が体ごとまっすぐこちらを見ている。

「でも、あいにく私はもう長いこと、籠もることに慣れているの。お社と比べたらずいぶん広いところへ連れてこられたものだわ、とずっと思っていた」

 巽の言い回しを真似てから、幸はゆっくり花開くように微笑む。

「里に下りられるのは嬉しいけれど、それだけ。あまり広いところへ連れて行かれても困っちゃうから、私は決まった場所にいるのがいいんだわ」

 巽はどうも意味を取りかねている様子。さらに笑みを深めた幸は、はっきりと言うことにした。

「いまの暮らしがたのしいの。連れ出してくれて、ありがとう」

「なら、」

 言いかけた巽を、幸ははっとして遮った。

「でも、この池から里に下りられるってどういうことなの。一度やってみていいかしら」

 急にきらきらと輝き出した瞳に、巽の肩の力がどっと抜ける。

「ためしてみるか」

「ちょっと待って」

「なんだ」

「私、泳いだことないのよ」

 まるでこの世の終わりのような顔をする幸に、巽はとうとう笑い崩れた。

「お前な」

「なによ」

「いや」

 ふーっと息を吐いてから手を伸べる。

「なら、俺につかまっていればいい」

「そうする」

 手を取り合って、巽が幸の身体をしっかり抱え込んで、軽く踏み込んでからぽんと飛ぶ。

 ほんとうは泳げなくたって飛び込んでしまえば問題ないのだが、こうして素直に頼られるのは悪くない。また小さな秘密を抱える巽なのだった。

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