短夜
このところ、
このままでは里の実りに障りが生じる。巽とて里の者たちを苦しめたいわけではないし、その苦しみが幸の不在に結びつくのもまずい。神の域に片足を突っ込んでいる幸にとって、人の恨みはこれまで以上に毒になる。巽はそのおそろしさを、身にしみて知っている。
巽の出入りは昼夜を問わず、しかし幸は朝に起きて夕べに眠る暮らしを続けている。すると互いに顔を合わせる時間はみるみる減って、ひとことふたこと交わすだけの日が増えて、幸の胸中にはなにか重たいつかえが生じるようになった。
(寂しい)
幸にとって巽は、神様であるよりも保護者であり、友であり、心安くできる唯一の相手だ。生みの親はあれど甘えられる間柄ではなかったし、〈燕送り〉とは仲良しだがこれも少し違う。
名前の一件もあり、もっと知りたい、語らいたいと思う気持ちは強くなる一方であった。しかし務めを邪魔するわけにはいかない。ならば、こちらから歩み寄ればいい。
幸は寝ずの番をすることに決めた。
さいわいひととおりのものは揃っている。どんなに遅くなろうとも、戻った巽を酒肴で迎え、しばらくぶりにゆっくり話すのだ。うっかり寝入ったときのために、雷の子を買収して目覚ましも頼んだ。
あたりが色濃く染まる夏の夕暮れ、巽が降らせる強い雨があらゆるものを叩く音が、ここにいても聞こえてくる。島のように浮かんで見えるのが入道雲のてっぺん、直下はきっと群青に沈んでいるだろう。こちらでは蜩が鳴いている。なんとも不思議な心地だった。やがて澄んだ紺青の帳がおりて、池のほとりで蛍が滑るように明滅する。その間も遠くで雨音は続いている。月がのぼり、青い庭に銀の粉をまぶす。
夏の短夜がこれほど劇的なものだとは、幸は本来の目的も忘れてその移り変わりに見入っていた。柱に背をもたせかけ、片手に盃、もう片手で時折庭の甘味を摘む。巫女として規則正しい生活を求められてきた幸の初めての晩酌(中身は水)は、少しの後ろめたさと尽きぬときめきとともに更けていく。
雨は夜明けまで降り続き、巽が邸に戻ったのはしらじら明けの頃。ひゅうと小さな稲光がはしるのとほぼ同時に、縁側で眠りこける幸を見つけた。
「ついさきほどまで頑張っておられたのですが」
「一体何をだ」
「ぬしさまとゆっくりお話ししたいから、今日という今日は戻られるまで眠らないのだと」
「なんだと」
それならそうと言えばよいのに、言わずとも願いさえすれば察することはできただろう。しかし幸は己のために願うことをしない。だから巽は気づけない。
まったく無茶をするものだが、こうして心を寄せられることを喜ばない巽でもなかった。くたりと溶けた娘を掬い上げ、柔らかな床に横たえる。目を覚ましたら話をしようと巽もそばで身を丸めるが、幸を見守るまなざしはいくらももたなかった。
恋しさが愛しさに変わるまで、あとすこし。
ぱちぱちと光を散らしていた雷の子はそっと去り、夜明けの静かな青がふたりの眠りを満たしていった。
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