その名前
名前を呼ぶとあきらかに返事の調子が弾むので、
「巽、おかえりなさい」
「ねえ巽、里の様子はどうだった?」
「たつみー、どこー」
巽は嬉しいとき、切れ長の目もとがクッと細くなる。どうやら顔が緩まないよう力を込めているようなのだが、そばにいる幸にはお見通しだ。
ところが。
「なあ幸、よく言ってる〈たつみ〉っていうのはなんなんだ」
二人の間に一石を投じたのは、団扇の一件以来、幸の話し相手になって久しい風神である。巽はよその水神と結んで遠く広く雲を運びに出かけており、風神は留守を任された格好だ。
大きな樹の枝の上、並んで腰掛けて足をぶらつかせる。風神の動きでわずかに風が起こり、葉擦れの音が春の雨のようだった。
「なにって、あのひとの名前でしょう」
「なるほどな。そりゃあ渾名だ。おおかた、人里に降りるときに名乗ってたんだろ」
「そう」
幸の眉間に皺が寄る。あんなに呼ばせたがったくせに、本当の名前ではなかったのか。どうりで神様にしては簡単すぎると。などなど。波立った心中を察したように、風神が当人に代わって弁解した。
「俺達の名はちょっと長いし、人と交わるには仰々しいんだよな。あの人は特に、川の名そのものだろう。あやしくてしょうがねえや」
風神はからっと笑う。幸はそこへ踏み込んだ。
「ほんとはなんていうの」
ぎょろりとこちらを向く目、引き結んだ口元、彼の表情は本当に豊かだ。しばしのにらめっことなったが、幸も一向に引かない。やがて風神のほうがふうっと息を吐いた。
「いけねえよ、これは俺が明かすわけにはいかねえ」
「なぜ」
「ああ見えて、俺なんかよりよっぽど偉い神様なんだぜ。ちゃんと祀られてるしな。名前にも相応のちからがある。んで見ての通り、俺はあの人の使いっ走りだ」
「使いっ走りだから私の相手もしてくれてるの」
すっかりふくれっ面の幸に風神は慌てた。
「いやいや、それは話が飛びすぎってもんだよ」
「ほんとうに?」
答える代わりに、彼は背に挿していた団扇をやおら引っ張り出した。渋い銀鼠の地に、浅葱色の矢羽根格子が当ててある。
「俺と幸はこの団扇で縁が結ばれたんだ。それらしく言やあ、ともだちだな」
今度は幸が息を呑む番。
「ともだち。はじめてだわ」
「うそだろ」
カカカと空に飛ばした笑い声をすっかりおさめてから、風神は声を潜めた。
「じゃあ、せっかくだから俺の名前を教えてやろう」
「いいの」
幸がいくらか身構えると、風神はこともなげに言う。
「ともだちだからな。それに、俺のには大した力はねえ。〈燕送り〉だ」
「つばめおくり?」
「巣立ちの燕を助ける風。ちょうどそのときに生まれたんだ」
幸は目をぱっと輝かせた。
なんて彼らしい良い名だろう。そう思ったのだ。
「ということがあって」
「あいつ、また余計なことを」
「余計なことじゃない、あなたのことは知りたいもの」
あえて巽という名を避けて、暗に彼を非難する。幸の意図は、どうやらちゃんと伝わったようだった。
眉は八の字、口角は上がり気味。巽は複雑な顔をして首をさする。
「幸にとっての俺は巽だ。それでじゅうぶんだろう」
「じゃあその名前の由来は?」
「なに?」
風神の名を聞いて、巽からもきっとなにかしら素敵な由来、あるいは昔話が聞けると踏んだのだ。幸は機嫌を損ねたふうを装って、その実わくわくしながら待ってみたのだが。
「ところで幸、干支は全部言えるか」
「馬鹿にしてるの」
はぐらかすにしてはなんと子供じみたやり方だろう。危うく本当に怒りそうになった。別に真の名を聞かせてほしいというわけじゃないのに。
「いいから」
巽も譲らない姿勢だ。できないと思われるのも癪なので、とりあえず付き合ってやることにした。
一体何の意味があるのだか。幸は幼子のように、指折りしながら諳んじる。
「ね、うし、とら、う、たつ……あっ」
「それだけだ」
あっはっはと大口を開けて笑う龍神を前に、人の娘はがっくりと頭を垂れるほかないのだった。
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