緑陰

 たつみのすまいは庭に大きく開かれている。板葺きの屋根の勾配はゆるく、庇は若木の梢と触れ合うほどに低い。建物の作りは里のものと大差ないが、ただゆきからしてみればとにかく壁が少なかった。はじめはひどく心細く感じたものである。

 暮らしているうちに、壁がなくても不自由しないことに気がついた。天上の気候は荒れることがない。雨風はあまねく天地を巡るもの、そういう降りかた、吹きかたをする。あまりに穏やかなので、幸は明るいうちのかなりの時間を庭で過ごした。

 低く枝垂れた柳の根元、こんもりと咲くつつじの蔭。誰が見ているわけでもないけれど、視線を遮るものがあると安らいだ。書物を読むとき、筆を執るとき、風神の団扇を繕うときも、幸はどこにだって緑陰の小部屋を拵えた。そして、幸が時間を忘れていると、暗くなる前にかならず巽が見つけてくれるのだった。

 社に籠もりきりだった身には自由に出歩けることじたいがとにかく新鮮で、幸はやがて庭のすみずみを知り尽くし、草木についても大変詳しくなった。見たことのあるものもないものも、天上のものは里とどう違うのかと思い巡らせたりした。

「ここの緑はやっぱり里とは違うのよね。それだけは、すこし寂しい」

 あるとき、幸が何の気なしに漏らした言葉に、縁側でくつろいでいた巽ががばりと身を起こした。

「戻りたいのか」

「いえ、べつに」

「はあ、おどかすな」

「おどかしてなんか」

 団扇の修繕をしたときに、文箱から草の穂が転がり落ちたのだ。すっかり乾いてしまって種がぱらぱらとこぼれたが、記憶はあざやかに蘇る。

 あれは、巽が初めてくれた贈り物だった。

 天上では同じ草を見たことがない。草木の種類が違うことに気がついたのも、これがきっかけだ。

(思い出は思い出、ということ)

 しかし今は、その思い出を分かち合える相手がいる。幸は文箱を持ってきて、いまだ落ち着かない様子の巽へ、そっと語りかけた。

「あの、これ、覚えてる?」

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