団扇

 暑い日が続くので、たつみの手元では風神の団扇が大活躍している。大きいわりにつくりは大変繊細で、華奢な骨に薄い紙を張ったさまはまるで蜻蛉の翅、見た目にも涼しげな逸品だ。しかしそこは風神の持ち物。ただ涼むだけのために使うには、威力が強すぎるのが難である。ゆきはいつか自分が飛ばされるのではないかとひやひやしていた。

「そんなむやみに風を起こしていいの」

「地上に届く頃にはそよ風だからな。起こして悪いということもない」

「そうなの」

「多分な」

 また適当なことを、と幸が渋面を作ると、巽は「俺の受け持ちじゃないからよくわからん」と開き直る。なんだかばかばかしくなって、追及するのを諦めた。

 そこへびゅうと一陣の風。巽の手元を狙うかのような吹き方に驚いて、幸は風の来し方を振り向く。

「やいやい!」

 腰に手を当て、肩を怒らせる小僧が一人。無造作に飛び跳ねる髪にししっ鼻からはきかん気が噴きだして、面長ですらりとした印象の巽と向かい合うとひどく対照的だ。おそらく彼が風神なのだろう。

「いい加減返せよ俺の団扇!」

「これが一張羅というわけでもないだろうが」

「それはそうだが」

「いずれ返すさ」

「そのいずれがいつになるかわからんからこうしてやって来ているというのに」

 ぐぬぬ、と握りしめた手には使い古された様子の竹の団扇。一張羅ではないにしろ、巽が手にしているもののほうが上等なのは傍目に見ても明らかだ。

「いやあ、近頃ぱたりと風が止んだせいで暑くてかなわん」

「おぬしがそれを持って行ったからだろう」

「それじゃいかんのか」

 巽が顎で竹の団扇を指すと、風神はがっくりと肩を落とした。

「こいつは破れてしまって、加減がきかんのだ。やたらめったら暴風を吹かすわけにもいかんからな。控えている」

「難儀なことだな」

 どう考えても巽が悪いのに、本人は気にする様子もない。なりゆきを見守っていた幸はとうとう我慢ができなくなった。

「あの」

 声を張り上げて、ずずいと前に出る。天上でほかの神に会うのは初めてだったので、これまで目立たぬよう巽のかげに隠れていたのだ。

「私が繕いましょうか」

 ぱっと顔を上げて目を剥いた風神は、震える手で幸を指さして、何度か口を開けては閉じた。

「お前は、そのなんだ、人の子を誑かして……」

 風神のあまりの驚きように、幸は彼の前に出たことを後悔しはじめた。そこへむっと眉を寄せた巽が反駁する。

「人聞きの悪いことを言うな、同意の上だ」

「えっ、そうなの?」

 幸のこの反応に、今度は巽の口が塞がらなくなった。幸は特に否とも応とも言った覚えはない。首をひねりつつ、風神から団扇を受け取る。

 わずかな持ち物のなかに大事にしていた文箱があって、こっそり集めていたきれいな紙をたくさん収めてある。もったいなくて使いそびれていたものだが、こうした形で役に立つなら悪くない。社にいたころも身の回りのものはおよそ自分で手入れしていたから、手先にはそれなりに自信があった。

「娘、直せるのか」

「破れているところを継げばいいんですね」

「うん」

「ならきっと」

「おお」

 吊り上げていた眦をふにゃりと和らげて、風神の笑みがほころぶ。つられて幸も微笑むと、なぜか巽がたいそう不機嫌になった。

「それくらい己でなんとかしろ、なぜ幸にやらせる」

「娘、幸というのか」

「む」

「私が言い出したことですから、やりますよ」

「むむ」

 分が悪いとみた巽は、とうとう手にしていた団扇を突き出した。

「これは返すから、とっとと帰れ」

「なんだ急に」

 突然の手のひら返しに驚いて、風神はすぐには受け取らない。代わりに翅の団扇と幸とを見比べ、やがてうっすらと笑みを浮かべた。さきほどの無邪気な喜色とは違う、企みを思いついた顔だった。

「いいだろう」

 持ち物を取り返し、さらに笑みを深める。

「しかし、修繕のほうは俺と幸との約束だからな」

「なに」

「商売道具がひとつきりでは、いつまた何が起こるか知れぬ」

それから幸に向き直る。二人とも、巽に思うところがあるという点で通じ合っていた。

「幸、頼んだぞ」

「承りました」


 風神はつむじ風とともに去り、幸は預かった団扇をそうっとなでた。破れ目のあたりから、なにかうずうずと動き出しそうな気配がする。うっかり煽いでしまわぬよう大事に運んでいると、巽の口元がますます立派なへの字に曲がった。

 根城にしている一角から例の文箱を取り出し、色も厚みも大きさもさまざまな紙をざっと広げる。巽が声をかけてこないのをいいことに、幸はさっそく修繕に取りかかることにした。

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