天の川

 たつみは龍神。雨風を司るものとして祀られているが、もとをただせば里を流れる川の化身だ。だから流域のことはよくわかる。魚が泳ぎ鳥や獣がひとやすみする、あるいは狩り場としての川。男たちが伐り倒した木を流し、女たちが泥や汗を濯ぎ、童たちが飛沫をあげて戯れる川。生きとし生けるものの多くは懐に抱いたことのある、言わば我が子のようなもの。

……いや、我が子は言いすぎか。

 ともかく、どんな生き物でもだいたい幼少時から知っている。だからあるとき里に降りて、まるで知らない娘を見かけたときの衝撃は大きかった。

 人に紛れて様子をうかがっていると、娘が行動を許されているのは社とせいぜいその周りだけ。時折せせらぎの音が聞こえるていどで、巽の本体からは近くて遠かった。

 大人たちの心の安寧のために、無邪気な時代を取り上げられた子ども。

 与えられた役目を悟ったようでいながら、外界をじっと見つめ耳をすます子ども。

 どうも気にかかって、折にふれまわりで起きた出来事を話してやっていたのだが、娘は思いのほか物知りだった。時間だけはたっぷりあるので、手近な書物を片端から読み、社を囲む木立の四季を誰よりも詳らかに観察していたのだ。そこへ巽がちょっかいを出すことで見聞の間口がぐんと広がり、くすぶっていた疑問に糸口を見つけられるようになった。見るもあざやかに謎を解決するさまは、そばで見ていて気持ちがよい。

 しかしそれが、彼女の唯一の遊びだったのだ。

 なんと高尚で寂しいのだろう。巽はますます目が離せなくなった。


 夏が来れば天上でも暑い。眼下に広がる木々の湿った吐息がじっとりとまとわりつく昼下がり、巽は風神から取り上げた扇をゆったりとくゆらせ、ゆきはその風圧に足を踏ん張りながらすまいの掃除に励んでいた。

「何もする気が起きんな」

「少しは手伝ってくれてもいいんじゃないですか」

「やらんでいいと言っているのに」

「ほかにすることがないんです」

 わたし神様じゃないし、と頬をふくらませる幸を振り返って、巽はわずかに眉を下げた。幸は働くことで己の価値を保とうとしているように見える。里で見かけた娘たちは、もっと傲慢で若さへの自信にあふれていたというのに。

「遊びに行くか」

「どこへ」

「川。行ったことないだろう」

「ないけど」

 どうして、と顔に書いてある。川の遊びがどういうものかわからない、幸のとまどいがありありと見て取れた。俺のところに来たらめいっぱいあやしてやったのに。幸の幼い頃を想像して、巽の心に悔いが滲んだ。

「ひとまず俺の背に乗れ」

「えっ、それって」

 予告もなしに衣を脱ぎ捨てる巽に、幸は慌てて目を覆った。世俗に慣れていないとはいえ、ひとの裸を直視しないだけの常識はあるらしい。巽はすこしほっとして、その身をぐるりと翻す。ひやりと冷たい風が起き、雲がざわりと流れ、日差しを反射しながら雨が降る。幸が顔を覆った手をよけると、目の前に清涼な気をまとった碧の龍が身を横たえていた。

「ほれ」

 深いところから反響する声は、それでも軽い調子を孕んでいるところが巽だった。幸は巽の豊かな鬣に分け入り、背に向かって伸びる枝角をそっと握った。祭事で見かけた宝珠のごとき角は、透かした内側に小さな星が流れているのが見える。

「遠慮するな、しっかりつかまれ」

 巽が身を起こし、幸の身体がぐらりと揺れた。幸は咄嗟に膝を締め、角を握る手に力をこめた。

 龍のかたちをした清流が空を駆け上がる。幾重にも層をなす天上界を素晴らしい速さで貫いて、天蓋の青は一層深みを増していった。まもなくたどり着いた先は永遠の夜。見渡す限り、無数の煌めきが散らばっている。

 幸は混乱していた。川というから下に降りるものとばかり思っていた。それとも、この飛行そのものが川遊びなのだろうか。話に聞く川は、荒々しいこと止め処なく、清々したものだという。勢いが緩んだのを見はからって巽の意図を問う。

「川遊びってこういうこと?」

「いや、まだまだ」

 巽が鼻先を向けると幸も自然とそちらを向くかっこうになる。すると紺青の闇に慣れた目が、行く手の眩さに驚いて火花を散らした。

「天の川……!」

「そうとも」

 頷くなり龍神はその身を躍らせ、光の奔流に飛び込んだ。星屑の飛沫が上がり、幸は目を閉じ顔じゅうに力を込める。ところが肌をよぎる流れは思いのほか軽く、そっと息を吸い込んでみても苦しくない。おそるおそる目を開けて明るさに慣れるまでしばし、ものが見分けられるようになると、ありとあらゆるものが流れのなかを跳ね回っていることがわかった。

 魚に鳥に獣、人の形のもの。ぶつかりまじって別の形に変じたり、くっついても元の形を残したままおかしなかっこうで伸び縮みしたり。時折ぱちんと弾けて外へ飛び出していくものもある。流れは涼やかだが水のように質量をもたない。激しくも喜びに満ちたこの有様を目の当たりにして、幸は天の川のなんたるかを肌で感じ取った。

「天の川は魂魄の通い路。皆、ここでさだめをつかんで地上に降りるのさ」

 巽は顔にかかるものをしきりに振り払いながら突き進む。

「たましいをそんな雑に扱っていいの」

「いいに決まっている。せいぜいかき回してやれ。まだ誰も何者でもないんだ、とおりいっぺんでないほうが命は面白い」

「面白いって」

 人智を超えている。少なからず親しみを感じていた巽にはじめて神らしさの片鱗を見て、幸はわけもなく消沈する。

「あっ、おい」

 緩んだ手は枝角をあっさり取り落とし、幸の身体は奔流に放り出された。上下もわからない視界の片隅で青い渦が巻き、すぐさまこちらに伸びて胴を巻き込む。

「捕まっていろと言ったろう!」

 びっくりして声も出なかった。巽はいつの間にか若者の姿に転じていて、幸を肩と膝裏からしっかりと抱えて覗き込んだ。激しい流れをものともせず、杭のように立つ。

 吐息のまじる距離でまなざしを交わす。幸の脳裏に「いまここに味方はこの人しかいない」という思いがよぎった。太い首に腕を回して、胸に顔を埋める。そうすると本当に世界に二人しかいなくなって、なんだか泣きそうだった。

「そう落ち込むな」

 叱られてしょげていると思ったのか、巽は幸をあやすように揺すりながら岸辺におろした。流れが激しいのは川の芯、外に向かうほどゆるやかになる。

「ちょっと過激すぎたか」

 幸は首を横に振った。肩をすくめた巽は、幸の細い足首にぱちゃぱちゃと光の飛沫をかける。

「なにしてるの」

「里の子どもはこうして遊んでいたぞ」

 今度は人並みの遊びをしよう、と巽が言う。落ち着いて見渡せばそこはひろびろとした石の河原、幸は角の取れた平たい石を手に取ってまじまじと見つめた。

「……賽の河原?」

「そりゃ別の場所だ。積まなくていいぞ」

 呵々と笑った巽が伸べた大きなてのひら。いつかもこんなことがあったと思いながらその手をとり、幸はふらつく足を踏みしめた。

「石を投げる遊びもあったな」

「乱暴ね」

「どうだったか」

 巽が横ざまに振りかぶって放った石は、光の帯を点々と跳ねて消えた。

「なにいまの」

「跳ねたな」

「私もやる」

 しかし、幸が放った石は放物線を描いてただ流れに呑み込まれていく。

「なんで」

「さあなあ、もっと平たく投げたほうがいいんじゃないか」

 唇を突き出して石を検分する幸が可愛くて、巽は身をかがめて隣に寄り添った。もっと多くのものを見せてやろう、経験させてやろうという親心の裏側に、与えたもので豊かに花開く幸の表情をそばで見ていたい、己だけのものにしたいという欲がべったりと張りついていることに気がついて、そこから慎重に距離をとる。

 幸の石はなかなか跳ねない。奮闘する彼女の前を、何者でもない、何になるかわからない無数の魂魄を抱えた天の川が滔々と流れていった。

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