黄昏

 どこの家の者かは知らぬ。いつも里の若衆組といて、年寄りたちとも酒を酌み交わし、たまに社へ顔を出しにくる馴染みの若者がいる。楽しいことなら他にたくさんあるだろう、社殿に籠められたままの娘のことなど放っておけばよい、じっさい忘れ去られていることのほうが多いというのに、この若者だけはなにかと話しかけてくる。軒先へ巣を構えた燕の話、山で出会った狐の話、どこぞの家の赤子の話。他愛のない世間話のできる相手を他にもたなかったので、娘はどうにも彼を邪険にできなかった。

 里のさいわいを背に負うて、巫女と祀られた贄の娘。名をゆきという。

 その日は世話役が戸締まりを忘れ、幸は初めて日暮れを見届けた。見慣れた風景に赤みがさして、あたりが刻一刻と熟していく。陽射しは赤く、影は青く、淡く溶け合って紫色を帯びたころ、山際がひときわ強く光り輝く。

 瞬間、幸の視界を大きな影が覆った。

「めずらしいな」

 聞き慣れた声がしたが、暗くて顔がよく見えない。いつもの若者に違いないはず、なのに姿はより大きく、捉えがたく感じる。胸の内が騒いで、幸は暗がりに目を凝らす。

「こんな時分までどうした」

 かがんでもらってようやく、見知った切れ長の目元が見えた。ほっとして返答する。

「誰も来ないから、日暮れを眺めてたの」

「ふうん」

「あなたは帰らなくていいの」

「お前が中に入ったらな」

「そうね」

 普段は軽口ばかりのくせに、たまにまともなことを言う。おとなしく社殿に戻ることにした幸を、若者は宣言どおり見送るつもりのようだった。

「いまぐらいが一番あぶないから、気をつけろよ」

 戸を隔てて届いた声は、意外なほど真摯な色を帯びていた。思わず振り返った先に若者の影はすでになく、代わりに、宵闇にたなびく長い影を見た気がした。

 目にしたものの正体、それから、黄昏どきを「逢魔が刻」と呼ぶことを幸が知るのは、もうすこしあとのこと。

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