人はこれをや恋といふらむ

寿すばる

第1話

 動物界脊索動物門哺乳網サル目ヒト科ヒト属サピエンス種

 人間の生物学上の分類だ。


 けれど実際には、その先の枝分かれが存在する。陽キャ族と、陰キャ族。私の席の前には、キラキラと眩しい光を放つ陽キャ族のオスが座っている。


「吉本」

「なに」


 帰ろうとしたとき、陽キャ族のオスが振り向いて私に声をかけた。陰キャ族の私は、敢えてそっけなく返事をする。


「あのさ、これ訳して?」

「英語?」


 陽キャ族のオス、渚は、上目遣いのスマイルでノートを広げた。渚が机に頬杖をついて小首を傾げると、陽に透けるふわふわの前髪が軽やかに揺れ、私はノートに目を落として跳ねる心をごまかした。


 ノートには、和歌が一首。大伴宿禰家持の、恋の歌。


『ますらをと思へる我やかくばかりみつれにみつれ片思をせむ』


「ますらをってイケメンて意味でしょ? そこだけ調べた」

「ぜんぶ調べなよ」

「いいじゃん、教えてよ」

「ふう。えっと、そのイケメンが、自分はイケメン、つまり当時の感覚だと強くて男らしい人物だと思ってたけど、片思いでテンパってます、みたいな」


 だいたいの雰囲気で意訳。当時のますらをが今のイケメンかっていうと、少し違うと思うけれど。


「さすが吉本、片思いって昔から片思いって言うんだな、おもしろ! さんきゅ!」

「どういたしまして」


 初めてこの歌を見たとき、私も同じことを思った。千年前の片思い……たった三十一文字に込められた気持ちに思いを馳せる。


「吉本ってさ、昔からマジ頭良かったよな。大学どこ受けるん?」

「国立。うちお金ないし。あと頭良いってか、他に取り柄ないから必死にやってる」

「そっか、じゃ俺も国立かな」

「何それ。やめてよね、渚様が受けるなんてわかったらうちの女子みんな受けるよ。倍率凄いことになっちゃう」

「冷たいなぁ。でも、それはあるかも。あはは」

「否定しないんだ」

「だって否定するほうがイヤミでしょ」

「はあそうですね」


 モテを否定しないとか、ノリで進路決めるみたいな、陽キャ族のこういうところが苦手。でも、渚は私の初恋の人で、小学生のときからの片思いが継続中なのである。


 渚は陽キャ族の中でも一際目立つ存在だ。生まれつき茶色い、ふわふわの髪。白い肌に女子より赤い唇、整った眉と長い睫毛に大きな瞳。おまけに背も高くて、王子様要素しかない。それでいて、飾らない気さくな人柄は男女共に好かれている。


 住む世界がまるで違うし、どうせ実らない恋。苦手を通り越して嫌いになれたら、と思う。でも、さすが初恋。陽キャが苦手でも、なかなか嫌いになれない。


 渚は視界の端でまだこっちを向いている。直視したら想いを隠せなくなりそうで、早く前向いてよ! と心の中で叫ぶ。


「吉本さんきゅ、また明日!」

「あ、うん。じゃね」


 渚はノートをしまうと急いでバッグを肩にかけ、クラスのみんなとも声を掛け合いながら教室を出ていった。残された私は、賑わう教室をぼんやりと眺めながら、渚が転校した小学生の頃のことを振り返った。


 渚は、小学五年の時に両親が離婚したとかで転校して、それっきりだった。だから渚が高三になってうちの高校に転校してきたのには驚いた。偶然の再会と、すっかり見違えるその見た目に――


 実をいうと、渚は昔、すごく太っていたのだ。今でこそ女子が夢中の容姿だって、当時は白豚、もじゃもじゃ、女みたいな顔、って言われていた。


 渚はいつも明るく笑って流していた。でも、見てしまった。誰もいない教室で泣いているところを。


 渚と初めて会ったのは、小学校の入学式のあとだった。近場に住んでいる子で登下校班を組むために集められた中に、彼がいた。


 茶色くてふわふわの髪が、当時死んでしまったばかりのハムスターにそっくりだと思った。桜の花びらが彼の髪にひっかかっていて、取ってあげたのを覚えている。ある意味では一目惚れ。でも異性としてではなくて、たぶんペットロスの延長線上の気持ちだったと思う。


 渚は物静かで、私がハムスターの名前で呼びたいなんて言ったのを、すんなりオーケーしてくれるような子だった。私はアトピー肌が酷くて、幼稚園でお友達に汚いと言われたことがあって、人と話すことが苦手だったけれど、彼のことはハムスターが人間になったみたいで気軽に話すことができた。


 彼が周囲から浮いていることには、割とすぐに気づいていたと思う。それがいじめだと気付いたのは、太ることへの嫌悪が強くなる年頃になってからだった。


 けれど私は、いじめを止めるとか、先生に伝えることができなかった。なんとなく分かっていたのだ。渚がいじめにあっているうちは、自分のアトピー肌のことを言われずに済むということを。


 いじめの空気を読んで学校で話さなくなってからも、帰り道で二人になってから話すのは楽しかった。思い返すと、本当に卑怯な子供だったと思う。


 そんな時間が、いつしかハムスターの代わりなんかじゃなくて、渚そのものとして大切になっていることに気がついて、彼のことが好きなんだ、と自覚した。


 渚が転校したときはショックだったし、いじめを見ないふりしてしまったことを謝ることもできないままなのが心残りだった。

 

 だからまずは、ちゃんと謝って、許してもらえたら。


好きと言いたい。


 でも相手は今や陽キャ族の頂点レベルのイケメン。一方の私は、治りそうで治らないアトピーのしわくちゃな老け顔、友達もいなくてガリ勉で、本ばかり読んでいる地味な陰キャ族。絶対に無理だ。だからこの想いは、だれにも言えない。



 季節は過ぎ、陽キャ族が校則ギリギリのパステルカラーのニットに身を包みだした頃。


「よーしもと」


 ぼんやりしていたら、渚の声がいきなり頭の上から降ってきた。


「わあっ」

「驚きすぎ」

「びっくりさせないでよ」

「ごめんね、てかまた訳してよ」


『風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけてものを思ふころかな』


 ノートには、源重之の歌。久しぶりに例の現代語訳依頼だ。


「簡単に言うと、つれない女性に当たって砕けちゃって凹む、って感じかな」

「へぇー、しげゆき、振られたのか。どんまいだな」

「ぷっ、しげゆきって。友達みたい」

「昔の人も恋してたんだなとか思うとさ、なんか友達っぽい気がしてくるでしょ」

「まあ、確かに」

「こう、なんていうの? 当たって砕けるのはキッツイのわかる。俺とかもさ、告られる方には慣れてるけど告る方はなぁ」


 けらけらと笑いながらこんなことを言えるようになった彼は、昔とは別人みたいだ。


「自分で告られ慣れてるって言えちゃうくらいなのに、何言ってんの。だいたい渚、恋してるの? 誰とも付き合わないって噂じゃん」

「どうだと思う?」


 不意の質問返し。上から見下ろしているのに、顎を引いた上目遣い。まっすぐに心を射抜くみたいな、だけどどこか物憂げで寂しそうな眼差しに、息が止まりそうだった。こんな顔で告白したら、断る子なんかいないよ。


「えっ、と」

「なーんてな! さんきゅ」


 目ヂカラを緩めて思い切り笑った顔が眩しすぎて、私は席を立ち用もないのに廊下へ向かった。


 とはいえ、教室を出ても行くあてはないので、仕方なくトイレに行くことに。でも女子トイレは怖い。たいていは陽キャ族がメイクを直したりして、おしゃべりしているから。もちろん校則違反なのだけれど。だから怖いというか、居心地が悪いのだ。


 いつも、今日はいませんように、と祈るような気持ちでトイレに向かう。

……良かった。誰もいない。


 だけど、私が個室に入ったあと、ぺちゃくちゃと話しながら誰かが入ってきた。この声、クラスの子達だ。


「あー! オバちゃんほんとムカつく!」

「渚、席替えしてからオバちゃんとよく話してるよね」

「話しすぎ! 私が渚の後ろになりたかったよ!」

「だよねぇ。私も隣とか後ろになりたかったわ。あのさ、まさかとは思うけど、渚ってオバちゃんのこと好きじゃないよね?」


 オバチャン=誰か先生の悪口かと思った。だけど、それはどうやら私のことみたいだった。自覚はある。小さい頃よりはマシになったけれど、今もアトピーで荒れた皮膚が深いシワを刻んでいるから。


 はあ。サイアク。聞きたくないけれど、生憎ここでドアを開けて出ていけるようなメンタルは持ち合わせていない。


「ないでしょ! 絶対ないない! あったら困る!」

「だよねぇ。でもオバちゃんは勘違いしてそう」

「あーわかる。陰キャのくせに渚呼びとかね」

「あとさ、あの面倒くさそうな態度、わざとらしいよね」

「普通に喜べばいいのにね」

「だよねぇ。けどオバちゃんが喜んでニヤける顔はあんま見たくないなぁ、オバちゃん通り越してしわくちゃお婆ちゃんになっちゃう」

「あはは、だめだよそんなこと言っちゃ。可哀想」

「あ、言い出しっぺが今更いい子ぶってる。ずるいぞ」


 分かってますよ、そんなこと。カチャカチャと化粧ポーチをかき回す音と、教室で聞くより低い声が混ざってイライラする。彼女たちは人前ではワントーン高い声で話す。陽キャ族の習性だ。


「でもさ、オバちゃん、勘違いして告っちゃったりしないかな」

「さすがにナイでしょ。でもどうせフラれるし、あんま気にしなくていいんじゃないの」

「それもそっか」


 分かってはいるけれど……改めて言われるとズキンと胸に刺さる。どうせフラれる、か。そうだよね、その通りだ。


 彼女たちがトイレから出ていく音を確認してから、そろりと個室を出る。蛇口をひねるとキシキシと古びた音がして、気持ちの切り替えにうってつけな真冬の水。両手で冷たい水を受け止めて、パシパシっと頬をたたいた。


 それからは、今まで以上のそっけなさで渚に接することにした。女子たちにまた何か言われるのも嫌だし、いっそ渚から嫌われてしまったほうが気が楽だと思ったから。言えない想いなら壊れてしまえばいい。だけど、昔のことだけは謝らなくちゃ。私はそのタイミングのためだけに、呼吸をしているような気がした。



 冬休みも近づき、もうすぐクリスマス。街中が楽しげに彩られている。私は、この時期が好き。街はキラキラ賑やかで、ワクワクする。


 だけど今年のは少し憂鬱だ。クラスの女子が渚に告ってフラれたらしい。別にそのこと自体は気にならないけれど、フラれた理由が。


『渚、好きな子いるんだって』


 女子たちの、内緒になっていない内緒話が、漏れ聞こえてしまったから。そっか。渚、好きな子いるんだね。だから一時期あんな恋の歌を気にしていたのか。胸がズキズキして、頭がクラクラして、その日は授業も全く頭に入ってこなかったし、夜もうまく眠れなかった。


 浅い眠りの中で、十数年前の小さな私が、もっと小さなハムスターを手に抱いて笑っていた。


 幼い記憶は朧げで、クリスマスにうちへやってきたハムスターのことも、断片的にしか思い出せなくなってきている。


 恋が実らない悲しさと、思い出がどんどん薄れていく悲しさで泣きながら、いつの間にか深く眠って朝を迎えた。けれど、どんなに泣いたところで想いは伝えられないし、優しかった思い出にも戻れないのだ。



 何日経ったか、クリスマスが終わろうとしている。


 私は日直で、後ろの黒板に描かれたツリーのチョークアートを消しながら、本当は今日まではクリスマスなのにな、と妙に淋しくなる。


 ため息をつくと、ひとりきりの教室はとても広く感じた。


「よ、し、も、と」


 聞きなれた声がして振りむくと、見覚えのあるノートをひらつかせて渚が立っていた。もう帰ったと思ったのに。


「もしかして和歌?」

「おう」


『きみにより思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ』


 やっぱり。そんなに想っているなら……。


「これはね、あなたが私に世間でいう恋というものを教えてくれたんですよ、って告白みたいな歌だよ」

「毎度すごいな。さすが――」

「そんなに好きな子いるんなら告っちゃえばいいのに」


 この歌が自分に宛てられたものじゃないと思うと、訳してあげるだけの自分が情けなくて、悔しくて、イライラしてつい、言ってしまった。


 渚は驚いたような表情で目をまんまるにして、顔を真っ赤にして、時間が止まったみたいになった。そっか、そんなに好きなんだね……。私は言ったことを後悔したし、泣きたくなった。でも、口を開いた渚が言った言葉は。


「……じゃあ、言います。好きです、付き合ってください」

「へ?」


 予想外すぎて、なんて言っていいのかわからない。聞き間違い? ドッキリ? なんで私? どこが? なんで? 好きな子いるって言ってたじゃん? 頭の中が疑問符でいっぱいになる。


「え、と、よ、予行練習、なの、かな?」


 噛み噛みでなんとか返してみたけれど、やっぱり現実が受け止めきれない。今日ってエイプリルフールじゃないよね?


「練習じゃないし! これ本番だし! マキちゃんに言ってるの!」

「あ、その呼び方……」


 一緒に下校していた頃の呼び方だ。すっかり忘れていた。そして大事なことを思い出した。私は……うん、今ならきっと言える。


「わ、私は、ごめんなさい!」

「え、俺フラれた感じ?」


 完全にタイミングと言い方を間違えた!


「あっ、そうじゃなくて! 先に昔いじめを見て見ぬフリしてたこと、謝らなきゃって」


 言えた! 許してもらえるかわからないけれど、言えた。


「そんなの、怒ってないよ。いじめに抵抗するのって、きっと本人より怖いと思うから」

「……怒ってないの?」

「全然。それにマキちゃんは、ね。ほら、肌とかさ、いじめられそうな要素持ってたから、俺はずっとマキちゃんを守ってるんだ! って踏ん張れてた」

「そんな……本当にごめんなさい。ありがとう……」

「帰り道マキちゃんと話せて本当に救われたし。むしろ俺がありがとうだよ」


 そう言って私の頭にポンと乗せた大きな手が、すごく、熱かった。その手から温かい気持ちが伝わってきて、私の心も温かくなった。


「それに……」

「それに?」

「変わらなかったの、マキちゃんだけだから」

「え?」

「昔もそんな感じで好きだと思ってた。でも恋愛感情かって言われると謎で。でも、中学でみるみる痩せてから周りが手のひら返したみたいになって、ガワだけに寄ってくるヤツとかうんざりで」


 それから、こっち戻って何人も同級がいるのに、名字と見た目が変わってだれも俺のこと気付かなくて、マキちゃんは気付いてくれたから、とも言われた。


「そのふわふわの髪、忘れるわけないから」

「坊主にしたら?」

「瞳も、唇も、渚ならちゃんとわかるよ」

「ははは、愛のチカラだな!」


 わざと大袈裟に言って横を向いた彼の顔は、首まで真っ赤だった。その姿に、千年前のますらをが重なった。


「渚、私も大好きです!」



 その後、私と渚は無事に大学合格。渚は大手の芸能事務所と契約した。私の、だれにも言えない片思いは、だれにも言えない両思いになりそうだ。


 でも言えないついでに。渚に言えていないことがあるのだ。


 それは告白の時に出してくれた歌が、実は男同士の友情ジョークだという話。だけど真実は、千年前のますらをに聞かないとわからないのだ。



終はり

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人はこれをや恋といふらむ 寿すばる @kotobukisubaru

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