第30話 貼紙
日付が変わる前に眠りに落ち、暑さに目を覚まされた。背中の汗に眉をひそめてから、九洞の姿がないことに気づく。座布団は二枚とも空でトートバッグも見当たらない。
「九洞さん」
部屋は静まっている。ふざけて姿を消しているとも思えない。もう一度周りを見回すと、机の上に鈍く光る合鍵が目に入った。来るのが突然なら去るのも突然なのだと納得できないわけではないが、きちんと見送りたかったのも確かだ。沈黙に耳が疼いて洋楽のプレイリストを再生した。年代も歌詞の内容も分からなかった。
乃木地から着信があったのは正午を少し過ぎた頃、一人にも二人にも聞こえる女性ヴォーカルが流れている時だった。
「もし――」
『九洞さんはいらっしゃいますか?』
風のようなノイズと速いテンポの靴音が鳴っている。
「いや、いません。もう出ていったみたいです」
『出ていった?』
「はい。今日ここを出る予定だったので……すいません、予定が早まったって伝えてなかった気がします」
『行き先は?』
「いや、言ってませんでした」
何かあったのか尋ねかけ、
『お心当たりはないですか? 行きそうなところや行きたかったところでも』
乃木地の声が割り込んでくる。
「行きそうなところですか? 色々興味がありそうなので、どこにでも行く気がします。行きたかったところは……昨日は見たいって言ってた花火を見たんですけど、それ以外は特に」
『今まではどこに行きましたか?』
「近所と仕事場と、都内の霊園と水族館……あと居酒屋くらいです。本人と連絡はとれないんですか?」
『はい』
え、と声がこぼれた。
『チャットのアカウントは残っていますが、こちらからメッセージを送れず通話もできません』
通話したまま九洞とのチャット画面に切り替えた。スタンプを一つタップして数秒後、〈送信できません〉とポップアップが表示される。手に冷たい湿り気が滲んだ。
「どうして……もしかして、もう星に帰ったとか」
『そう思って調べましたが、帰星手続きの記録はありませんでした』
「じゃあ帰ってない」
『少なくとも正規の方法では』
乃木地が言い終わるやスマホが震える。
『画像をお送りしました。ご確認ください』
乃木地と九洞のチャットのスクリーンショットだった。九洞がいくつかテキストファイルを送っている――全て今日の正午に。
「なんですか、これ」
『それぞれレポート、私宛てのメッセージ、そしてこの観光プロジェクトに参画している国や星宛ての意見書です』
意見書、とおうむ返しに問うのを抑える。
『これらについて確認しようとしたところ、今に至るまで音信不通です。日ヶ士さんは今ご自宅ですか?』
「はい」
『では、近くで九洞さんがいそうな場所を探していただけますか?』
「分かりました。すぐ出ます」
『私は都内をあたります。担当部署の者にも応援を頼みます。――よくない結果になるかもしれませんが、覚悟はできていますか』
考える間もなく答えてアパートを飛び出した。部屋の鍵をかけたか覚えがないが、確かめに戻る気もなかった。駅前を一通り回った後、念のため再び寄ったコンビニでのどの渇きに気づいた。買って数秒の麦茶をイートインコーナーで立ったままあおり、あおりながら「次はどこに行けばいい」と口に出しそうになる。スーパー、公園、ファミレスに駅、この辺りは見尽くした。九洞が訪れた場所が他にもあったはずだ。確かに行ったと話していた――自分が目を合わせず、ろくに聞いていなかっただけで。眼裏の夜空に華やかな光と煙が揺らめく。花火を見た百貨店の駐車場にも行った。夜よりわずかに多い車と、高い建物のまばらな開けた風景だけがあった。
「向こう岸」
恒樹はまぶたを開ける。窓の貼り紙に大きく写った迷い犬と目が合った。自動ドアに肩をぶつけながらコンビニを出た。
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