第12話 すいか
何時か知れない夜更け、左のすねの脇でマットレスが小さく沈んだ。目を閉じたままじっとしていると、右膝のすぐ横、続いて左膝すれすれのところでベッドが軋む。どうやら何かが顔の方へ近づいているようで、重いまぶたを開けることにした。
人影が一つ、自分をまたいで膝立ちになっている。カーテン越しの外光は暗く、表情は全く見えないが、シルエットは間違いなくキューだった。しかしこれは九洞だ。なぜなら昼間に桃のアイスバーを食べていたので。
「眠れない?」
問いかけに反応はない。眠れないも何も、九洞は眠ることがないのだ。加えて九洞には敬語で話すのだから、これは九洞ではないし、となればキュー以外のはずがない。体を九十度起こすとシャツの第二ボタンの辺りが目の前にあった。恒樹はさらに上半身を傾けてシャツの背中に腕を回した。熱のない平坦な背中だった。恒樹の口から、声が言葉でないものとしてほとばしった。涙が両頬に幾筋も流れた。堰を切ったようなとはこれを言うのだと思いながら叫んで泣いた。そして閉じたまぶた越しに、キューの背中からシャツをやんわりと破って生えだす無数の何かを見た。ある瞬間には無色透明、ある瞬間にはオレンジと白のツートンカラーのそれらは、空中を放射状に泳いでやがて主たる彼の方へ、否、自分を巻き込むようにゆるい弧を描いていく。恒樹は彼を抱きしめたまま動かなかった。死ぬという確信じみた予感があったが、どうせ夢なのだから串刺しにされても取り込まれてもかまわなかったし、どうせ夢なのだからこれ以上何かを発する気もなかった。それに、
「もう泣き叫んでしまったのだし」
寝言からそうでない言葉へのグラデーションをまとった声にアラームがかぶさる。九時半だった。二度寝をする気は起きなかった。じっとりとした体を起こし、念のためパジャマの袖で目元や頬を拭う。九洞は座布団の上でスマホを見ている。
「おはようございます」
「おはようございます。明日は『おはよう』でいいですよ」
「ああ」
恒樹はかすれた声で答える。ああ、そうだった。
腹が減っていないわけではないものの、朝食はトースト一枚にとどめた。洗面所で身づくろいを済ませてリビングに戻ると、九洞と目が合った。
「今日はどこかに行きますか?」
「いや、特には……家にいるつもり」
「わたしもそれだとありがたいです」
九洞がスマホの画面をこちらに向ける。
「夏目漱石の小説を読みはじめました」
「なんていうやつ?」
「今は『こゝろ』です」
「へえ」
代表作だとか、先生という人物が出てくるとか、頭に浮かんでものどにつかえて出てこない。つばを飲みくだし、棚の上にある小さなスピーカーの電源を押した。休日は洋楽かインストかクラシックか、なんにしても気の散らない音楽を流している。一瞬迷ってからスマホをスピーカーにつなげた。迷ったのは、話すには静かな方がいい気もしたし、静寂に耐えられない気もしたからだった。直感で選んだクラシックのアルバムをタップしかけてとどまる。
「九洞さん」
九洞がスマホから目を離す。
「音楽かけていい? うるさいかな」
「大丈夫ですよ。どうぞ」
ピアノの重い音が何度か響いた。恒樹は座布団に腰を下ろし、手のひらをズボンに押しつける。今日この後を居心地悪く過ごすことになるとしても、はっきりさせるなら早い方がよかった。踏ん切りはついているのに、それでもスマホに触れてホーム画面に飛ぶ。九時五十八分。メールのアイコンについた赤いバッジが目につく。理由もなく通知や天気予報の画面に切り替え、それから閉じた。
「あの、読んでるとこごめん」
九洞が再び目を上げる。激しかった曲調は一転して穏やかになっていた。
「一つ教えてほしいことがあって」
九洞がスマホを置いた。
「なんでしょう」
「その……あなたって、何者?」
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