第9話 団扇
いつもの休日より三時間早く起きた。せっかく都内に出るのだから、他に行きたい場所がないか九洞に尋ねたところ、水族館という案が出た。幸運なことに、霊園の近くに聞いたことのある有名な所があり、一も二もなく行程に組み込んだ。電車に乗る前にコンビニで麦茶を買うと、新発売のキャンペーンと称して丸うちわがついてきた。九洞も彼のスマホをかざして一本買い、やはり一枚受け取った。
快速電車は小さな駅を飛ばし、あっという間に仕事場の最寄駅に停まった。上り電車でこの駅を過ぎる時に決まってわくわくしてしまうのは、年甲斐がないように思う。
「外でも遠慮なく話ができるのはいいですね」
九洞の声が弾んでいる。
「そうですね」
発車の揺れで肩同士がぶつかる。
「すみません」
九洞が小さく頭を下げた。
「いや」
乗り換え駅で改札を出て入り、黄土色のメトロを一駅で降りる。汗ばむ指先で地図アプリを操作してやけに細い道を歩く。何回か角を曲がった先に竹垣と蝉時雨が近づいてきた。竹垣に沿って右に進めば、〈1種1号1側〉と書かれた白い柱が現れる。柱と街灯が道沿いに並び、道の両脇には墓石がどこまでも列を成している。
「着いたっぽいですね」
近くの案内板を見るに、予想より広く、隅から隅まで見るのは現実的ではなさそうだった。
「今ここなので」
赤い丸を差し、
「この道を通ってみましょう」
大きな通りに指をすべらせる。九洞がうなずいた。
進むごとに柱の数字が大きくなっていく。花入りの桶を運ぶ人が、向こうからやって来たり、墓石の間に見え隠れしたりする。
「全然、答えられたらでいいんですけど」
恒樹は声を心もちひそめる。
「九洞さんの星ではお墓はつくるんですか?」
「つくる国もありますが、わたしの国ではつくりません。遺体は決まった場所に置いておいて、そこで崩れていくのを待ちます」
雲間からの光に輝く墓石と、虚ろなほどに深い葉の緑が網膜を揺さぶる。恒樹はまぶたを数秒閉じて開いた。
「墓も遺体もないと、その……亡くなった人がいた証というか、そういうものがあまりない気がしますね」
「そのとおりだと思います。遺体と同じように、その人にまつわる記憶や思い出も、無理に引き止めず自然と手放していきます。もちろん忘れるのを強制されることはないですし、記録も禁止されてはいません。それに、体はあくまで精神の器だという考え方が一般的なので、遺体を保存するのは少数派だと思います」
「その人の本体は精神、ってことですか?」
「はい。そのような感じです」
通りを鈍角に折れ、軽トラックとすれ違った後、九洞が足を止めた。
「あのお墓はこれまで見なかった形ですね」
指差すことはしなかったものの、どれを言っているのかはすぐに分かった。縦にも横にも大きい上に、形も単なる四角柱ではないので明らかに目立っている。
恒樹は正面に回り込み、刻まれた文字に目を通して、
「夏目漱石だ」
声をあげた。思ったよりも大きな音量に、取りつくろうように「あの」と続ける。
「有名な小説家です。日本で知らない人がいないくらい有名です」
「そうなんですね。初めて聞きました」
九洞が目を細くし、妙な傾斜のついた墓石をながめる。戒名の彫られた石が背もたれで、両脇の石がひじ掛けとすれば、椅子に見えないこともない。
「日ヶ士さんはこの人の小説を読んだことがありますか?」
「はい。高校の授業でやりました」
「わたしも読んで分かるでしょうか」
「そうだな……昔の話だから分かりづらいかもしれないけど、九洞さんなら大丈夫だと思います」
「買いかぶっていませんか?」
「そんなことないですよ」
九洞の微笑にはにかみが混じった。
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