第6話 筆
国道を折れて駅前通りを進むと、ほどなく深緑の庇が見えてくる。恒樹は静かに息を吐いた。
「さっきチャットで送ったのはここのことなんですけど……車で待ってますか?」
「いえ、行ってみたいです」
九洞の声には緊張も怒りもない。
「大丈夫です。日ヶ士さんはいつもどおり仕事を進めてください。わたしは何をする気もありませんし、何を見聞きしても、それはわたしが選んだ行動の結果ですから」
「そう言うなら……」
「ありがとうございます」
狭い駐車スペースの端に停めてトランクを開ける。店に入って「朝日でーす」と声を張ると、店主がカウンターから笑顔で手を振ってきた。
「ご苦労様です」
「どうも」
入口に厨房、トイレのマットを回収して車に戻り、トランクの大きな袋に詰める。入れ替わりに新品を担いで店に戻った。マットはどれも同じような色で、たたまれているとなおさら見分けがつきにくい。最初のうちは裏に貼られた寸法のシールをいちいち確認していたが、今は重さやなんとなくの感覚で区別できるようになってきた。
作業が終わって手袋をとる。手のひらも甲もじっとりと湿っていた。伝票を受け取った店主が、恒樹に目で席を示してくる。
「いつもすみません」
「や、いいのよ。日ヶ士さんさえ迷惑じゃなければね、開店前の肩慣らしってことで――今回の豆は特別いいよ」
スツールに座ると、スラックスと合皮が擦れて音が鳴った。恒樹は店主が背を向けたタイミングで九洞を振り返り、隣の席を指差す。
「豆屋さんに何回も聞いてたんだけどね、いっつも『なかなか流通がないんです』って言われてたのよ。それがやっと出せるようになってね」
「そんなに貴重なんですか?」
「や、採れるのは採れるんだけど、最近は物流がおかしくてなかなか入ってこないらしくてさ」
「物騒ですからね」
「まあねえ。でもね、私なんかは国というよりか、もっと別なものがかんでると思うよ」
店主がカップとソーサーを出す。なんの変哲もない白い一組だった。早くも口の中が苦くなった気がした。
「物流云々っていうのもね、どこかの国がわがまま言ってるとかいう話だけど、裏でもっと大きなものが動いてると思うのよ。日本だって例外じゃないね、最近変な事件が多いでしょ。変な割にあんまり報道されないのがまたおかしい……ほらこれ、こないだ書いたんだけど」
店主がスマホをカウンターに置いた。垢抜けないポップな字で〈地球大好き☆マスターようちゃんのブログ〉と書かれた下に、文字がびっしり連なって時々太く強調されている――宇宙人、侵略、目を覚まそう。画面の上で三つの視線が交わる。
「私なりに色々調べて書いてみたんだけどね、筆が乗ったのなんの! 仲間からも好評」
「すごいですね」
「日ヶ士さんも気をつけた方がいいよ。私みたいなおじさんは使い道がないだろうけど、健康な若い男性は実験台や奴隷にはもってこいだから……はい、お待ちどおさま」
店主の腕が伸びてきてコーヒーが一杯置かれた。黄色い包装の菓子がソーサーに載っている。
「ありがとうございます。いただきます」
カップは取っ手すら熱く、果たして一口目で舌をやけどした。飲みやすい温度だったとしても、豆の違いは分かりそうになかった。
× × ×
「
複合機を離れようとする人影に声をかける。振り向いた皆岸の垂れ目と目が合った。恒樹はカバンから菓子を取り出した。幸いなことに割れた様子はない。
「これ、よかったらどうぞ」
「え、なんですか? お菓子?」
「はい、お客さんからもらったんです。たぶんクッキーか何かだと思うんですけど」
「いいんですか? 日ヶ士さんって甘いの食べないんでしたっけ」
「いや」
恒樹は視線を外して戻した。
「いくつかもらったので」
「え、だったら俺にもちょうだいよ」
向かいの席から幌田が割り込んでくる。
「もうないです」
「あ、そうなんですか? ラッキー」
「いいなあ皆岸さんだけ。贔屓じゃん」
「すみません。また今度」
「ちぇー」
「こりゃ次ももらえねえな」
隣の
「ありがとうございます。外国のお菓子って不思議な味がして好きなんですよね」
皆岸が目を細めて戻っていった。
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