第4話 滴る

 帰り道の十分で背中にびっしりと汗が浮いた。シャワーを浴びたいし腹も減ったし、何より少しでも早く眠りたかった。買った品を冷蔵庫に放り込んで夕食の支度を始める。念のため九洞に確認すると、やはり食事は控えるとのことだった。


「そのうち何か試してみたいのですが、体がこちらに慣れてきてからにしようと思います」


 恒樹は鮭を焼きながら、残り二切れを冷凍室に収めた。


は、食べること自体はするんですか?」

「はい。栄養を摂るためではなく嗜好としてですが」

「栄養は他のものからってことですか?」

「はい、そうです」


 そこから踏み込んでいいものか分からず、洗ったレタスをちぎりはじめる。皿に盛り、隣にミニトマトを三個、最後に鮭を載せる――少し崩れた。米は昨日の残りをチンした。


 皿と茶碗を手に机を向けば、あぐらをかいた九洞がキューの姿でこちらを見ている。前ぶれなく現れた、どこの星から来たとも分からない――聞いたところできっと知らないだろう――宇宙人は、どうして後輩の姿をしているのか。キュー本人が目にしたらどんな反応をするだろう。ドッペルゲンガーを見たら死ぬというから、想像はそこでやめておくことにした。


「食事はこれで全部ですか?」

「え? あ、はい。そうです」


 答えつつ、麦茶を忘れていたので台所にとんぼ返りする。九洞の分も注いだ。


「ありがとうございます」

「無理して飲まなくていいですよ。水分不足になるとよくないかと思って」

「そうですね。……見られていると食べづらいですか?」

「いや、別に大丈夫です」


 皮をびろりと剥がしてから鮭をつついた。いつものことながらぱさついている。麦茶を飲む。大丈夫とは言ったものの、真正面から視線を浴びながら食べるのは、おかしな力で背筋を伸ばされるような心地がする。レタスを飲み込んでから恒樹は、「ああ」と声を発した。


「明日も仕事に行きます。朝から夕方まで出かけて、今日と同じぐらいの時間に帰れると思います」

「分かりました。仕事場は遠いんですか?」


 町の名前を出しかけて、果たして通じるだろうかと内心首をひねる。


「ここから電車と歩きで四十分ぐらいです」

「なるほど。土曜日と日曜日はお休みですか?」

「ああ、はい」

「それはよかったです。労働時間が長いとか、休みが少ないとか、よくない話を聞いていたので」


 九洞が微笑を浮かべて麦茶を飲む。口を離した時に一滴、グラスを伝って机に落ちた。九洞が指先で雫を拭い、一瞬おいてから舐めた。


 シャワーの間は九洞にリビングで待ってもらうことにした。ぬるい水に意識まで流されそうになりながら、髪を洗い、体を洗い、洗面所でパジャマを着た。


「九洞さんもどうぞ」

「ありがとうございます。ですが今日は遠慮しておきます」


 九洞がやんわりと首を振った。水を浴びたり体を清めたりといった行為は頻繁にはしないという――自堕落ではなくそういう生態だと思ってほしいと補足があった。


 次に二人分の寝床に困ったが、そもそも眠らず横にもならないという九洞の言葉に甘え、いつもどおりベッドを使うことにした。九洞は座布団を壁際に移して座っている。


「疲れたと思うのでよく休んでください」

「ありがとうございます。日ヶ士さんも」


 明かりを消してから枕元のスマホを取り上げ、鳥のアイコンをタップした。フォロー欄から鍵のマークのついたキューというアカウントを選ぶ。最新の投稿は三年前の夏、本が多すぎるので売るという宣言のままだった。

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