第3話 謎

「今から日ヶ士さんと一緒に行動させていただくのですが……」

「今から?」

「はい」

「仕事中もですか?」

「はい。ですが、他の人間に知覚されないように調節できるので、日ヶ士さんのお邪魔になることはありません。もちろん日ヶ士さんには見えるし声も聞こえます。触ることもできます」

「そんなにうまくできるんですか」

「そうみたいです。一度試してみてもよろしいですか?」

「はあ、はい」

「ありがとうございます。今から十秒間、日ヶ士さんはわたしを見ることも触れることもできなくなります。お話はできるようにしておきます」


 恒樹がぎこちなくうなずくのを確認し、九洞がトートバッグからスマホを出した。机の上で十秒のタイマーを設定する。


「わたしはここを動かないので、探してくださっても大丈夫です」

「はい」


 スマホをタップした九洞の指が視界から消え、恒樹は顔を正面に向ける。素早く手を引いたのかと思ったが、手どころか姿全体が見えない。


「いかがですか?」


 声が正面から聞こえてくる。


「見えません。すごい、どこにもいない」

「ここにいますよ。手を伸ばしてみてください」


 身を乗り出す。上下左右に動かしてみる手は空を切るばかりだった。


「何もない」


 アラームが鳴った。引っ込めた指の先を九洞のシャツがかすめる。


「このような感じです。わたしも最初は驚いたのですが、こちらに来る前に何度も検証して不具合はありませんでした」

「いや……びっくりしました。これを何時間も続けられるんですか?」

「はい」

「すごいな。何がなんだかさっぱり分かりません」

「わたしも詳しい仕組みは分かっていません。ですが、仕組みを理解しつくさなくても使うことはできます――これのように」


 九洞がスマホをトートバッグにしまった。謎のシステムが便利にはたらいているのだと思うことにして、恒樹は「そうですね」と返した。


「そうしたら、仕事に行って帰ってくる間は今みたいにしていただけるとありがたいです。他の用事の時は、その……普通にしていただいて大丈夫です」

「分かりました。そうします」


 九洞がグラスを持ち、口をつけてゆっくりと傾け、そしてコースターに戻した。


「日ヶ士さん、今日の予定は終わりましたか」

「予定ですか?」


 疲労に曇る頭を中身の少ない冷蔵庫がよぎった。


「ちょっとそこまで買い物に行きます」


 言い切らないうちに、九洞の口角がふわりと上がった。



     ×     ×     ×



 エスカレーターで地下一階に運ばれていく。九洞が小さく声をあげた。


「ここにあるのは全て食料なんですか?」

「日用品も置いてますけど、大体はそうです」

「そうですか」


 感慨深げな声を背に聞きながら恒樹はかごをとった。九洞にとって食事は必須ではないようで、ひとまず一人分の食料を調達することにした。色がきれいで傷のないものを基準にミニトマトやレタスを選び、作り置きのために人参も買うことにした。野菜コーナーを後にする前に振り返ると、いつの間にか数メートル離れていた九洞が小走りに追いついた。恒樹は「何かありましたか」と聞きかけてやめる。何かどころではない量の発見や疑問、あるいは地球人への軽蔑が九洞に押し寄せているのだろうと思ったので。


「歩くのが速かったら言ってください」

「ありがとうございます」


 鮮魚などが並ぶ一角には、今年も縁がないだろう土用の丑の広告が貼られている。鮭の切り身を吟味しているところに、数歩先から声がかかった。


「日ヶ士さん、これは」


 鮭をとってから九洞の元に向かう。指差す先にあったのは、まぐろの刺身用ブロックだった。


「まぐろですね」

「この肉の下にあるのはなんですか?」


 赤身とパックの間に、紙とも薄い緩衝材ともつかないものが敷かれている。


「ああ、身から出た汁を吸うシートです」

「そうなんですか。なんと呼ぶんですか?」


 九洞がキューの顔で見つめてくる。恒樹はたっぷり数秒が過ぎてから「後で調べてみます」と返した。麦茶と野菜ジュース、朝食用のパンなどをかごに入れて会計を済ませた。九洞は恒樹の後ろでレジ手前のガムのボトルやエナジードリンクを観察し、レジ係が品物を青いかごから黄色いかごへ移す手を目で追い、恒樹が小銭をいくらか出そうとして結局五千円札で払うのを見ていた。まぐろの下のシートはドラキュラマットと呼ぶらしかった。

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