第2話 金魚

「日ヶ士恒樹さんですか」


 わずかな間をおいてうなずくと、キューは顔のこわばりを和らげて、持っていた冊子に目を通しはじめた。恒樹は努めて落ち着けた足取りで近づいていった。キューには日ヶ士先輩と呼ばれていたので、フルネームはなんとなくそわそわする。しかし三年も音信不通であれば、距離を測りかねるのも不思議でない気がした。


 ショルダーバッグのポケットに部屋の鍵を探しながら、今度はキューがどうやってオートロックを突破したのかと疑問がわく。自分の居場所を知った経緯も分からない。キューとつながりのある友人には、住んでいる町を何人かに伝えただけで、住所まで教えた覚えもアパートに呼んだ覚えもなかった。


 わずかに冷たい鍵を握って足を止める。


「キュー」


 名刺のように差し出された薄い冊子に言葉が途切れた。白い表紙には角ばった文字で〈地球滞在マニュアル(日本編)〉とだけ書かれている。恒樹は心の中で「なるほど」とつぶやいた。なるほど、そういうことか。


「今日からお世話になるクドウです」


 冊子がひっくり返され、裏表紙の〈このマニュアルの持ち主:九洞〉が目に入る。偽名なのかどうかも分からない。


「よろしくお願いいたします」

「ああ、はい。こちらこそ」


 扉を開けて部屋に入った。ショルダーバッグを置き、九洞にも荷物を置くよう言いながら鍵を閉めに戻る。手洗いうがいの後に見てみれば、九洞は博物館の展示室に入った時のように、足をゆっくりと動かして八畳間を観察していた。背の低い横長の棚、くしゃくしゃのタオルケットを載せた窓際のベッド、開きっぱなしの押し入れ、あらゆるものに熱心な眼差しが注がれた。後ろに回した手に持つ地球滞在マニュアルが、魚の尾びれのように揺れている。恒樹はグラス二つに麦茶を注いで机に運んだ。それから押し入れの座布団を引っぱり出した拍子に、金魚もいつか宇宙に行ったことを思い出した。


 押し入れから窓へと部屋を横切る時には、肩や背中に視線がついてくるのを感じた。洗濯物を取り込んでベッドに置き、続けて座布団をはたく。消臭スプレーを吹きかけてから、自分の席と机を挟んで向き合うように置いた。


「どうぞ」


 九洞が再び微笑し、恒樹に倣ってあぐらをかいた。体のそばにはまだ肩にかけていたトートバッグを下ろした。


「日ヶ士さん」


 麦茶が犬歯の辺りに少し滲みる。恒樹はグラスから口を離した。


「これを読んでいただけますか」


 九洞がマニュアルのページをめくり、〈滞在先に到着したら〉という見出しを指差した。街を歩く人間ふたり――片方は宇宙人だろうが――のイラストが添えられている。


〈ホストと日常生活を共にし、地球での営みを観察・体感しましょう。

 ※一般に、排泄や性交渉などの行為の観察は歓迎されません。観察を希望する場合は、ホストおよびその他の対象の了承を得た上でおこなってください。〉

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