キューのエレジー

藤枝志野

第1話 黄昏

 途中まで見ていたドラマがあと数日で配信終了と知り、シーズンの最後まで見終わったのが三時前だった。睡眠は三時間足らずで、昼間の運転では冷や汗をかいた。横断歩道のないところを渡ろうとするのが悪いとはいえ、事故を起こしてしまえば七割ぐらいはこちらの過失になるだろうし、ドラマは誰が死んで誰が生き残ったかあやふやだし――そう、あやふやだ。つねは寂れた商店街を歩きながら、駅前のスーパーで買い出しをする予定だったのを思い出した。濃い灰色の空のなかで一つの雲だけが、選ばれたようにオレンジ色を帯びて輝いている。夜更かしはできない、記憶はもたない、おまけに胃も弱ってきた。歳をとった。そう言って先輩に笑い飛ばされたのは確か先週のことだ。


 倒れそうな速度の自転車とすれ違い、人気のない民家を過ぎた先、放置された耕作地の手前にアパートはあった。築三十年近くだが外観も内装も適度にきれいで、エントランスはオートロックつきだった。暗証番号を入力して狭いエントランスに入ると共用廊下が伸びている。一階と二階に同じ配置で四部屋ずつがあり、恒樹の部屋は一〇三号室なので一階の奥から二番目であり、その扉の前に男が立っていた――わずかに固い顔をして。恒樹の足は石を模したタイルの上に止まっていた。


 キューだった。


 いつでもハードカバーが入っているキャンバス生地のトートバッグ、バッグの取っ手と底と同じ紺色のデッキシューズ、それらを身につけた体の丈や顔つきや髪型、どれをとってもキューだった。


 頻繁だったSNSの更新が絶えたのは三年前の夏だった。チャットを送っても反応はなかった。同じ学部の人たちは近頃教室で見ないと言い、しかし退学の噂も聞かなかった。サークルで消息が話題にのぼるたび、「ヒモになったんじゃなかったの」という出任せが泡のように浮かんでは消えるだけだった。


 キューがいる。


 恒樹は短く息を吸ってから、かける言葉を考えていないことに気づく。軽く開いた口を結んだ時、


恒樹さんですか」


声は記憶よりも少し低かった。

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