#4-4 右眼はまだやれぬ
あれは何ですか、と訊ねた俺に、師匠はハンドルを握ったまま「なんだろうねぇ」と笑った。
腰の抜けた俺を無理やり後部座席に放り込み、ご機嫌な洋楽が今日も明日もきみと一緒にいたいなんて歌っている、すっかり平和な車内である。
巽は、どうも手鏡よりはあれのほうが平気らしい。かなり嫌そうな顔で疲弊はしていたが、元気に自分の足で車に乗り込んでいた。
姉御など相変わらず平然としている。こんなに可憐な乙女なのに、ああいうものに耐性が強いというのがまたなんともいえないギャップだ。推せる。
「名前を訊いた者が誰もいないから解らないけれど、うちの血筋ではあれは『死神』と呼ばれているよ」
師匠は八束山を下りていきながら、いつも通り平坦に戻った抑揚の薄い声で語りはじめた。
「昔、むかしのことだ。
うちのご先祖さまは愚かにもひとつの異形と取引をした。この体をくれてやる代わりに、ちょっと教えてほしいことがあるんだが……ってな具合にね。しかし死神が約束通り体を貰いにやってきたとき、死にたくなかったご先祖さまはこう言った」
──「悪いが故あってこの身はやれぬ。代わりに右耳をくれてやるから、残りの体は一つずつ、わたしの子らから喰らうと良い」
わたしの子らから……。
自分の後世にそんな厄介な呪いを継がせるなんて、なんだかぞっとする。
師匠は俺が無言で眉を顰めたことに気付いたのか、左目を細めて喉の奥で笑った。
「迷惑な話だよねぇ、ほんと。ぼくで何代目だかもう忘れたけれども、それからずっとこうやって、どこそこを寄越せ、悪いがまだやれぬ、って先延ばしにしながら呪いが受け継がれてきたみたいだよ。基本的には血を継ぐ男のもとに現れるらしい」
「…………ひょっとして師匠ってすごい歴史のある家の人なんです?」
「無駄に続いてるってだけだよ」
彼の声は無関心に響いた。心の底からそう思っているようだ。
「そんな都合よく代わりに差し出せるものが調達できるはずもない。大体二、三十年で限界を迎えてどこかしら喰われる人が多いらしいが、先代の祖父は五十年も退け続けた。──ぼくは右目くらい見えなくなっても別に困らないんだけど、まあ」
何やらとんでもなく自虐的なことをさらりとぬかした師匠に目を剥いたが、次に零れた言葉に、俺はぱちりと瞬いた。
「ぼくの右目の次は、弟の喉だから」
弟──。
何年も口をきいていない秋津家の弟の顔が過ぎりかけたが、頭を振って振り払う。
師匠にも家族がいるのか。いや当たり前か。
あんな広い屋敷に一人で住んでいて、彼自身秘密主義なところがあるから、そもそも家族がいるというのが不思議な感じだ。師匠のお父さんとお母さんなんてものも、失礼な話だが全く想像できない。
「弟は喋れなくなったら不都合があるし、まだ小学生だしね。致し方なくこうやって心霊スポットや呪いのアイテムを見繕っては、死神にやる餌を捜しているってわけさ」
「……ただの酔狂じゃなかったのかぁ」
「いや八割は酔狂だろ」
「何か言ったかなそこの莫迦弟子二人」
「「いいえ何も……」」
ふ、とそこで車内が沈黙した。
師匠はそれ以上のことを語ろうとせず、姉御はほとんど喋らないまま助手席に座って窓の外を見つめている。自然と口をつぐんだ弟子二人も、顔を見合わせてシートに深く背を預けた。
黙ってしまうと、嫌でも先程の光景を思い出すから、本当はまだ話していたかった。
見鬼の強くない俺にすらあそこまではっきりと『闇』だと知覚させる存在感。恐らくは見鬼の強弱に関係なく、師匠にも姉御にもあれはああいう風に視えていると思う。それくらい力のある異形だった。
あんなものと、師匠は一体どれほど対峙してきたのだろう。
二、三十年で限界を迎える親族が多いなか、祖父君は五十年もあれを退け続けたというが、それは一体どれほど途方もない日々か。
死神に、右目の代わりとなるものを用意して餌として与える。
ならば代わりとなるものが用意できなくなったら?
用意したものに満足しなかったら?
今晩のように、一緒にいた俺たちがもしもうっかり声を上げて、死神に見つかってしまったら?
姉御は承知でいるのだ。いつかそんな恐ろしい日がくるかもしれないと。
──師匠と一緒にいるということは、承知して、覚悟もしておかなければならない。
「……次は、十月頃になるね」
今まで黙っていた姉御がぽつりと呟いた。
「そうだね」と軽い調子で応えた師匠は、あえて明るく取り繕っているようにも思われる。
「その頃には大分涼しくなっているかな。近頃は残暑が厳しくて参る……。たまには遠出でもしてみようか?」
「十月じゃまだ無理よ。部を引退してからならいいけど」
「それじゃ冬になるだろう。寒いのは嫌いだ」
「十一月頭の北辰祭が終わってからなら、定例総会の日程を調整すれば中旬でも」
「ふぅん。旅行するならどこがいい?」
「どこでも……」
どこか沈んだ声音の姉御に対して、師匠は不自然なほど声が明るい。
「……しぃちゃんの行きたいとこでいいよ」
姉御がついに口を閉ざした。
その沈黙が──、もう耐えられない、と言ったように、俺には聴こえた。姉御の本心がどうであれ、俺自身はとても耐えられないと思った。
あの死神が問題なのではない。いつか師匠を喪うかもしれない覚悟をして一緒にいることが恐ろしい。
「扨て、次は何を餌にしてやろうかしらねぇ……」
師匠の呟いた言葉に、心臓が浮き立つような恐怖を感じる。
膝の上に投げ出した手が震えていた。俺は、俺たちは一体、この人に何をしてあげられるだろう……。
ご機嫌な洋楽が場違いに愛を謳う。
窓の外を、夜の帳に包まれた鹿嶋市の夜景が、流れてゆく。
File.5 了
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