#4-3 右眼はまだやれぬ
これまで十八年間視てきた幽霊みたいィィィィィィィなもの、人の悪意の塊、意味もなく浮遊する黒い靄、瘴気の渦、街中に佇む明らかにやばいやつ、壁かィィィィィィィら生えて手招く白い腕、人間みたいなシルエットをした翳、異常に顔の大きな老爺、天井からぶら下がィィィィィィィる脚、山ひとつ跨るほど巨大な八束さまの黒い脚さえ軽く凌駕するほどこれは異形のものだったィィィィィィィ。
それが体を揺するたび、ィィィィィィィ、耳の奥底を侵す不快な金属音がする。
「っ……!」
ィィィィィィィ。悲鳴を上げるかたちで口を開いた俺は、喉を震わせる寸前で師匠の言葉を思い出した。
何が起きても明かりはつけないこと。
喋らないこと。
動いたり物音を立てたりしないこと。
あいつは目が悪いから、黙っていれば見つかることはない。
でも──こんなの悲鳴を上げないほうが無茶だ!
口を押さえるべきか耳を塞ぐべきかバットを離さないべきか混乱しはじめた俺の手から金属バットが滑り落ちた。姉御がはっと手を伸ばしたが遅く、がらんとバットが音を立てる。
それの気配が一斉に俺を向いたィィィィィィィざくざく音を立てて視線が、気配ィィィィィィィが、殺気が皮膚を突き破ィィィィィィィる。姉御が音もなく一歩前に出てそれとの間に立ちはだかった。巽が後ろから俺の肩に腕を回し、両手で力いっぱい口を塞ぐ。
「久しいな」
師匠が声をかけると、それの興味は、師匠へ向いた。
かぱり。闇に口が開く。
──みいいいぃぃぃ……。
無慈悲なほど赤い口腔が露わになり、なにごとかを訴えるように蠢く。みいいいぃぃぃ。耐えられなくなって両手で耳を塞いだ。ぎいいいぃぃぃ。だって、あれは、違うだろう。めえええぇぇぇあれは普段のものとはわけが違うみいいいぃぃぃだってあんなものぎいいいぃぃぃあんなあああああ、うるさいうるさいうるさいめえええぇぇぇうるさいうるさいうるさい!!
右腕に鋭い痛みが奔った。
姉御が俺の右腕を握りしめてきたのだった。爪を立て抉るほど容赦なく。
闇に浮かぶ白い横顔が、まろい頬が、ぴくりとも動かず師匠を見つめている。闇と混沌を混ぜ合わせてできた子どもの粘土細工みたいな異形と対峙する師匠の背中を。
ふっと冷静になる。
もし本当に危険なモノだとしたら、師匠が姉御を連れてくるはずがない。
師匠はちょっと正気を疑うほどの恐れ知らずだし弟子たちを心霊スポットに連れ出して高笑いするタイプの人だが、姉御に対しては、彼女が泣いたら動揺するしケンカになったら子どもみたいな意地を張る普通の人間なのだから。
──みぎめ、よこせ。
我に返ってみると、あの不快な金属音はそう言っていた。
相変わらず体の形が定まらず、外皮は不安定に剥がれたり引っ付いたりしている。だがそれに構わず、「みぎめ」「みぎめよこせ」と病的にその二語を繰り返した。
右眼。
正絹のように艶やかな前髪でいつも覆い隠されている、師匠の右眼。以前、夜風に煽られて前髪が翻ったときに見かけたけれど、別に何ということもなかった。なんで隠しているんだろう、また本名と同様にオカルト的意味があるのかただのファッションなのか、とあまり深く考えていなかったけど。
師匠はひとしきり異形の「みぎめよこせ」を聞いてやったあと、
「悪いが故あって右眼はまだやれぬ」
高くもなく、低くもない不思議な声で、いつもの平坦さなど嘘のように音吐朗々と応えた。
まるで舞台役者が口にする台詞のような響きだ。
「代わりにこの手鏡をくれてやる」
師匠は大仰に袂を翻しながら手鏡を投げやった。これもまたどこか役者のような、大袈裟な動きだ。
異形の足元に、手鏡が滑る。
それはゆっくりとした動作で手鏡を見下ろした。いまや手鏡から洩れる呪いの残滓など異形の存在感に掻き消され、ただ古いだけのモノになってしまっている。薬袋の祖母を死に至らしめたかもしれず、従妹を不調に追い込み、師匠さえ邸のなかから存在を察知し、巽は中てられて卒倒した──気合いの入った大伯母の呪詛を内包した手鏡。
かぱり。闇に口が開く。身を屈めて、地面に覆いかぶさる。
ぱりん。
ばき、ぱき、とあまりにも呆気ない音を立てて、手鏡は赤い口のなかで咀嚼されていた。
五、六回ほどもごもごと口を動かしたあと、それは再び錆びた刃物のような声を上げる。
「つつ、つつつぎはは」
ぼと、と零れた闇が粘性を伴って地面に水溜まりをつくる。
形を保っていられなくなったのか、小さく収縮し、次の瞬間には大きく膨らんだ。一度ぱんっと弾け飛び、すぐさま集まる。気味が悪いというか、とにかく気色が悪い。
「……ひゃ、く、ににににちご」
「承知した」
途方もない闇と対峙しながらも、師匠はいつも通り腕を組んで、着物の袖口に両腕を突っ込んだ。
「百日後には、必ず」
闇は嗤った。みいいいぃぃぃ百日後ぎいいいぃぃぃ百日後には右目を喰えるめえええぇぇぇ……闇夜に哄笑が響き渡る。
毀れた刃物同士を擦り合わせるような、錆び臭く、ざらざらとした嬌声。
やがてそれは地面のなかに融けてゆくように沈み込み、最後には黒い沼のようになり、とぷ、と粘ついた水音を立てて跡形もなく消えた。
あれの足音も、不快な声ももう聴こえない。
耳に痛いほどの静寂が戻ってきた。
師匠は懐中電灯の安っぽい灯かりで道路を照らし、先程までの痕跡が微塵も残っていないことを確認すると、こちらを振り返る。
「終わったよ」
それを聞いた瞬間、腰が抜けた。いや本当はずっと抜けていたが崩れ落ちるのを我慢していただけだ。我慢できた自分に心のなかで拍手喝采してやりたい。
足ががくがく震えて、しばらくは立てそうもない。
呆れた様子でこちらに近寄ってきた師匠は、懐中電灯を俺の顔に向けてきた。
「ちょ、師匠、まぶしい」
「動くなって言っただろう莫迦弟子が」
「それは誠にすみませ……いや眩しい眩しい!」
「なに腰抜かしてんだビビリ。こんな虫だらけの山にいつまでもいらんないよ、帰るからとっとと立ちな。立てないなら置いて行く」
「嘘でしょおおお何その仕打ちいいい説明求みますううう」
「ハハハ」
「ハハハじゃねーよ!! ほんとに!!」
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