#4-2 右眼はまだやれぬ

 八束山。

 鹿嶋市東部にある、隣の矢上市との境を担う山だ。地域の人びとからは「八束さま」などとも呼ばれる山で、古くから同名の神をお祀りしている。神とはいうが、その正体は山を跨ぐほども大きな蜘蛛の姿をしている──というのは、見鬼である俺たちのみの知るところだ。

 山中にあるトンネルの一つ『八束隧道』は、角度の違うカーブが二つ連続しているなどの理由から交通事故が多発し、事故件数は大阪府内ワースト3。事故が多く、死傷者が多く、従って知る人ぞ知る鹿嶋市屈指の心霊スポットにもなった。

 俺が師匠と出逢う直截のきっかけとなった、『黒いオオサンショウウオ事件』の終息地だ。


 師匠の胡散臭い笑顔がペカッと輝いた。


「大丈夫、今日は八束隧道にも旧巖倉博物館にも用事がないから」

「というか、そもそもなんで八束山?」

「誰もいない広い場所が必要でね」


 師匠は車のライトをハイビームに切り替え、八束山の蛇行した山道を上りはじめた。片側一車線で幅には余裕があるが、対向車線のそばに聳える断崖は圧迫感があるし、助手席側のガードレールの向こうは急斜面になっている。周囲が暗くて何も見えない。

 車の窓に映るのは、いつも通り黒縁眼鏡をかけた特徴のない顔の俺と、その向こうであざらしを膝に抱えた巽だけ。

 ……古瀬邸の書斎で師匠を睨む女を視てからというもの、ちょっぴり鏡や窓を覗くのに身構えてしまうようになった俺だった。


 うねうねと曲がりくねった山道をひたすら上る。

 土地鑑がないのでどこへ向かっているのか判らなかったが、師匠は八束隧道に差し掛かる前の分かれ道で左折し、細い道に進入した。

 闇のなかに飲み込まれていくような道行の末、師匠は行き止まりに車を停める。


 かろうじて車の向きを変えられる程度のスペースが空いた場所に頭から突っ込み、「こんなとこかな」とエンジンを切ってしまった。

 ダッシュボードで沈黙しているガムテープぐるぐる巻きの手鏡を掴んで車を降りる。姉御も無言で続いたので、俺と巽も慌ててドアを開けた。こんな山奥で一体何をどうする気なんだ。


「師匠あのう、そろそろ説明を」

「今回は別に何もしなくていい。向こうから勝手に来てくれるから」


 街灯なんてあるはずもない深い闇のなか、車体に手を添わせながら恐る恐る師匠の気配がするほうへと歩み寄る。師匠はこの暗闇のなかでも支障がないのか、普段通りの様子でトランクを開けて荷物を探っていた。


 そのとき俺は不思議な音に気付いた。

 どこか遠い空の向こうで、どぉぉぉん……と鐘のような音が響いている。

 ちょうど大晦日の夜に遠くのお寺から除夜の鐘が聞こえてくる感じだ。八束山に寺があったのだろうか、それにしてもこんな時間に、と訝しく思っているうちにもう一度。


 どぉぉ……ん。


「はいこれ、お守り」

「巽の金属バットじゃないすか」


 押しつけられた棒状のもの、もとい巽の基本装備品を反射的に受け取る。


「これ持って下がってな。藤香と一緒に居なさい。何が起きても明かりはつけないこと、喋らないこと、動いたり物音を立てたりしないこと。あいつは目が悪いから、黙っていれば見つかることはない」

「見つかるって、何に」

「シィ───……静かに」


 吐息を洩らすような忠告が、耳元に吹き込まれた。


 どぉ……ん。


 唾と一緒に息を呑み込む。なんだか、あの音、近付いてきていないか。

 ようやく暗闇に目が慣れ始めた。師匠の左眼と目が合う。硬直している俺を至近距離で見つめて、愉快そうに笑っていた。

 ひんやりとした師匠の手が、俺の手首を掴む。誘導されるままに歩いて、車から少し離れたところに立っていた姉御のほうへポイと放り出された。

 金属バットを握る手が震えている。


「藤香。巽と秋津くんを」


「うん」という姉御の短い返事が、いつも通りの柔らかな声音で、淡々としていることが救いだった。


 どぉん……。


 音が近付いてきている。

 目を凝らしても深い闇があるだけだ。俺たちに背を向けている師匠の後ろ姿も、隣にいるはずの姉御の輪郭も、濃い闇に融けてしまいそうだった。巽の金髪がほんの少し闇に浮いているのが心強い。

 姉御が、ぽん、と俺の肩甲骨の辺りを優しく叩いた。

 叩かれた箇所を中心になんだかぽかぽかしてきて、緊張感がほぐれていく。姉御は同じように、俺の横で硬直していた巽の背中も優しく叩いた。


 かちりと音がした。師匠の手元で安っぽい懐中電灯が点灯する。

 頼りないオレンジの光を地面に落とすそれは、俺たち一行にとってほとんど唯一の光源だ。以前心霊スポットでスマホをライト代わりに使った際、驚いた拍子に落っことして画面がバキバキになったので、俺はもう二度とスマホを使うまいと心に誓っている。師匠もいい加減、安い懐中電灯をやめてLEDの立派なやつにすればいいのに。

 師匠は懐中電灯の柄を口に咥えて、手許を照らしながら手鏡のガムテープを剥がし始めた。

 たまに鬱陶しそうに「チッ」と舌打ちを洩らしつつ(自分で貼ったんだから自業自得だ)剥がしていくたびに、手鏡から洩れ出た瘴気が溜め息のように俺の頬を撫でていった。


「怒ってるの?」


 師匠が誰にともなく訊ねる。


「仕方ないだろう。うるさかったんだから」


 あの女に……藤色の着物を着た大伯母に語り掛けているのだ。師匠の目には、視えているのだ。


 どぉん。


 すでに、地響きも伴うほどに距離が迫っていた。

 もう疑うべくもない。この音の正体は俺たちのもとへ、いや正確には師匠のもとへ向かってきている。そして師匠がそれを待っているのも明らかだ。


 何かとんでもなく恐ろしいことが起きるような気がする。

 バットのグリップを握りしめると、力を籠めすぎてギリリと音が鳴った。



 ──どぉん!



 鐘の音の正体が師匠の真正面に降ってきた。あまりの衝撃に大地が揺れ、枝葉が折れて舞い落ち、突風が吹き抜ける。姉御の髪やスカートが風に翻り、車の窓ガラスがびりびりと震えた。

 手鏡の封を解き終えた師匠は、懐中電灯で少し先の道を照らす。


 そこにあったのは、闇だった。


 八束山を支配する夜よりもなお深く、密度の濃い、ただひたすらに闇。蟲の大群のように凝り固まった闇がさわさわとそそけて、ふっと浮遊したと思ったら形をつくる。丁度よい形に定まらないのか、揺れては集まり、霧散しては斃れ、蠢いては落ちる──

 いままで聞こえていたのは、これが跳躍して着地しながらこちらに向かってくる音だったのだ。

 異形だ。

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