#4-1 右眼はまだやれぬ

《明日の夜十一時に出発。夕飯はロールキャベツ》


 という連絡を師匠から受け取った俺は、のこのこと自宅アパートを出て古瀬邸を訪れた。

 この日は久しぶりに傘のいらない天気だった。六月も下旬となるとずいぶん日が長くなっている。夕飯を準備して食べる時間も考慮して、俺は五時過ぎには呼び鈴を押していた。


『はい』


 応答してくれたのは女性の声。玉緒さんだ。


「玉緒さん、こんにちは! 秋津です」

『こんにちは、秋津さま。どうぞお入りください』


 そういえば玉緒さんの声を聴くのは久しぶりだな。

 彼女の勤務形態は謎だが、基本的に邸のなかに師匠がいるときは表に出てこないようだ。けっこうな頻度で通っているのにちゃんと会うのは二度目である。

 お邪魔しますと声をかけつつ、視界いっぱいに紫陽花の咲き並ぶ前庭の小径を進む。玄関の扉を開け放って待ってくれていた玉緒さんは、俺の姿を見つけると、折り目正しく一礼した。


「いらっしゃいませ。坊ちゃまは藤香お嬢さまと一緒に、ご夕食のお買い物にお出掛けでいらっしゃいます。書斎でお待ちください」

「あれ。師匠と姉御、仲直りしたんですね!」

「『いい加減機嫌直せよ』などと坊ちゃまが可愛げのないことを仰ってまた一悶着ございましたが、藤香お嬢さまが折れてくださったようです。坊ちゃまにも困ったものです」


 玉緒さんはあまり困っているように見えない無表情だが、俺はうんうんと大きく頷く。困ったものですな本当に!

 ていうか、また余計なこと言ったのか、師匠。


「このあいだ、玉緒さんはいなかったんですかね? 師匠がひとりで書斎に倒れてて、俺びっくりしたんですよ」

「その日はお休みをいただいておりました」


 邸のなかに入って靴を脱ぎ、スリッパを借りる。玉緒さんは音もなく扉を閉めて、静かに鍵を掛けた。


「玉緒さんって、ここにお勤めして長いんですか」

「そうですね。もうずいぶん長くこちらにお世話になっております」


 俺は無言で彼女の顔を見つめた。

 切れ長の双眸、長い睫毛、すっと通った鼻梁。つるんとした陶器みたいな額、頬。着ているのが機能性最優先の黒いワンピースに白のエプロンドレスだからか、年齢不詳だ。大人びた二十代前半の女性にも見えるし、若々しい四十代に見えなくもない。


「……師匠があんな無茶をするのは、初めてじゃないんですよね?」

「坊ちゃまは昔から、早く死んでしまいたいとお思いなのです」


 玉緒さんは顔色ひとつ変えずにそう言った。


「正確には、ご自分が長生きすることを想定していらっしゃらないのです。そういう厭世的なところのあるお方です。お嬢さまのことがあってからは顕著になりました」

「『お嬢さま』?」

「藤香お嬢さまと再会なさって、あれでも改善したほうでございます」


 俺がぽけっとしているあいだに、玉緒さんはまたきっちりとお辞儀をして、二階へ続く階段を上っていってしまった。

 これ以上の詳細は師匠本人に訊けばいいのだろうけれど──それにしても、自分が長生きすることを想定していない生き方というのは一体なんだ。


 俺だってそこまで具体的に自分の老後を想定してはいないが、玉緒さんの言い方だとまるで師匠がすぐにでも死ぬ予定だったみたいじゃないか。……そう考えて、はっと藤沢台1踏切での出来事を思い出した。

 子どもの翳に着物の袂を掴まれ、自嘲するように歪んだ師匠の口元。

 自分が択ばれることを解っていた人間の態度だ。


 ……多分、俺が思っているよりもずっと、師匠と『死』とは近しいところにあるのだろう。


 書斎に引っ込んで、人をダメにするタイプのビーズクッションにずぶずぶ沈み込んで暗い気分を持て余していると、廊下から軽やかな足音が聞こえてきた。

 玄関扉が開いた気配はしなかったから、おそらく台所の勝手口から師匠と姉御が帰ってきたのだ。起き上がって迎えようとしたがビーズクッションに手を取られて失敗し、転んだ。


「あ、秋津くんが来てる!……だ、大丈夫?」

「だいじょぶです……」


 姉御の後ろに師匠が立っている。「救急車呼ぶかい?」と心底莫迦にするような顔をされた。ちくしょう。




 古瀬邸の炊事権は第一に姉御にあり、第二に巽にある。ここまでが料理上手な二人。そして第三位に料理勉強中の俺、最下位が家主の師匠だ。

 師匠は涼やかな見た目や板についた和装も相俟って、何事も無難にこなしそうな雰囲気を漂わせているくせに、家事オンチの俺と大差ない腕前らしい。いや俺は怠惰に白旗を振っただけであって、ちゃんとしたレシピと材料があれば自分が食うには困らないものが作れるのだ。いっぽう師匠は砂糖と塩を間違えることはないが、ウィンナーを炭にした経歴をお持ちだそう。

 買い出しから帰ってきた姉御の指示のもと、料理オンチが手伝い、途中で巽も合流した結果、予定されていた夕飯のロールキャベツはたいへん美味だった。

 片付けを終えて姉御チョイスのアニメ映画DVDを一本楽しんだ一行は、二十三時、師匠の運転する車に乗り込み古瀬邸を出発する。


 金属バットはトランクに。

 幸いにしてまだ大活躍したことはない。

 お腹がちょっとへこんだあざらしの抱き枕は、巽の膝の上。

 そして問題の手鏡はというと、


「……ナニコレ!?」


 ──ガムテープでぐるぐる巻きにされ、ダッシュボードの上に。


「しばらく用事がないから二階の物置に放り込んでおいたんだけど、そしたら他のものがザワザワやかましくてね。仕方がないから適当なお札を貼ってガムテープでぐるぐる巻きにしておいた」

「仮にも友人のおばあ様の形見に対してなんという罰当たりな仕打ちを!」

「呪いの手鏡に対して寛容だねぇ秋津くんは」


 適当に貼ったというお札が効いているのだろうか、慥かに今日は、あの耳元に聞こえる溜め息や妙な気配は感じられなかった。それにしたって見た目が酷い。もっとどうにかならなかったのか。


「大体お札に適当も何もあるんですか」

「何年か前に相談者が持ち込んできたものなんだ。そのへんの心霊スポットで剥がしちゃったらしいよ」

「最低! 最悪!!」


 BGMは姉御のセレクト。四人の少年が森のなかの死体を捜して旅に出る映像が脳裡に浮かぶ。……あの映画メッチャ泣いたなぁ……また観よう。

 などと現実逃避する俺の横で、あざらし様を抱く巽が、カーナビを見て嫌そうな顔になる。


「師匠、この道って、八束山に向かってませんか」

「うん、そうだねぇ」

「ええっ!?」


 聞き捨てならぬ。思わず大きい声を出してしまった。

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