#3-4 窓、鏡、視界の隅

 具合の悪そうな師匠を一人にするのも憚られたのだが、「薬飲んだからもう大丈夫」と追い払われてしまった。

 看病の仕方なんてわからないし、そもそも看病が要るのかも不明だ。それに、師匠を睨む手鏡の女……仮説が正しければ薬袋さんの大伯母が、常にどこかにいるのだと思うとゾワゾワして落ち着かない。こんな弟子が傍にいるほうが却って鬱陶しかろうと思って、俺も大人しく追い払われることにした。


 自宅アパートのカードキーを差し込んでドアを開けた瞬間、籠もっていた湿気が頬を打った。

 じめっ……。て感じだ。

 いますぐ空調管理が完璧になされた古瀬邸の書斎に戻りたい。


 大学の教科書類でやたらと重たいリュックサックを床に置き、洗面所へ向かう。バス・トイレ別という譲れぬ条件を満たした物件だから、洗面所は脱衣所を兼ねていた。ハンドソープを掌に出して、無心で洗う。

 どきりとした。

 なんとなく手を見下ろしていた視界の端に、黒い翳が見える。

 左側。風呂につながる浴室ドアの辺り。

 視界の端ぎりぎり、何かあっても何とは認識しづらい限界のところ。


 途端に早鐘を打ち始めた心臓を誤魔化すように、努めてなんでもない態度を装いながら、俺は顔を左へ向けた。

 至って一般的な、白く曇ったパネルの中折れドア。閉めきったまま浴室乾燥をつけっ放しにしている。電気をつけていないから暗い。


「……いや、気にしすぎ……」


 と思ったのだが、今度は正面の鏡を見るのが怖くなっていた。

 薬袋さんの従妹は、まず視界の端が気になっていたのだ。次に鏡に女の姿が映るようになり、やがて鏡以外のものにも映り込むようになってきた。書斎の窓越しに視た女の、怒りの様子が思い起こされる。

 ──いない。

 いるはずがない。だってあの女は師匠のもとにいるのだから。


 意を決して、顔を正面に向ける。

 俺以外何も映ってはいない。

 まあ左側の浴室ドアの向こうとか、脱衣所の入口にかけた目隠し用のカーテンの隙間とか、色々気になってしまう空間や余白は山ほどあるのだが。俺は相変わらず小心な自分にがくりと項垂れ、泡まみれになっていた手をすすいだ。

 これは慥かに、耐えられん。

 師匠が笑い転げたのも無理はない。


 ベッドに寝転がってスマホを見てみると、千鳥から動画撮影のお誘いがきていた。新生活が落ち着いてから活動を再開したゲーム実況は、高校生のころとそう変わらぬテンポでゆったりと続けている。視聴者のなかにはおかえりと迎えてくれた人もいれば、音沙汰がなくなった人もいた。

 四日後には、師匠の招集がかかる予定だ。

 自然とその日を避ける文面を送っていた。俺もすっかり弟子である。

 ゲーム実況においてビビリな性格が(不本意ながら)好評を博している俺が、なぜ現実においてもホラーゲームみたいな体験をしているのだろう。冷静になってみると本当に意味が解らない。

 悶々としながらツイッターを開こうとしたとき、画面が急に黒くなった。


「うわ……って、なんだ電話かびっくりしたぁ!」


 母からである。

 急なことだったので少しどきどきしつつ応答すると、母の呑気な声が聴こえてきた。


『あ、綾人。元気ー?』

「ふつうだけど。……そっちは?」

『お父さんもお母さんも元気よ。紗彩さあやは七月末まで補講があって大変そうだった。絢斗けんとは派手なお友だちができたみたいで、ちょっと髪の毛の色が明るくなったよ』

「派手なお友だちって」


 紗彩と絢斗は、三つ年下の、双子の弟と妹だ。今年、高校一年生になった。

 紗彩は自宅近くの女子高に、絢斗も同じく自宅から自転車通学圏内の工業高校に進学している。


「……まあ絢斗は中学の頃からそんなじゃん」

『まあね。学校はなんだかんだで楽しいみたいだし、頭が茶色になるくらいいっかな。綾人は夏休みどうするの、お盆は横浜のおばあちゃんち行く予定だけど』

「夏休みなぁ……」


 もう何年も口をきいていない、弟の顔が脳裡にちらつく。

 俺が帰れば絢斗の機嫌が急降下するだろうが、さすがにお盆と年末年始くらいは家族の顔を見ておかねばなるまい……。


『あんたからも絢斗に言ってやってね。とりあえず警察のご厄介になるようなことだけはやめなさいって』

「俺が言ったら余計にグレないかな、あいつ」


 苦笑気味に零すが、母は『ええ、そうかな?』と懐疑的だ。


『昔は絢斗も綾人大好きっ子だったのに、いつまで反抗期してるのかしらね』

「むしろ高校生になってまで兄貴大好きだったら気味悪いよ。あんなもんだって」


 父や母は、兄弟の不仲を、絢斗の一方的な反抗心からくるものだと考えている。

 二人の間に何があったかは二人しか知らないからだ。

 いや正確には絢斗にさえ解っていない。ことを把握しているのは俺だけだ。

 俺にしか、視えていなかった。


 母はその後、千鳥は元気かとか友だちはできたのかとか色々質問してきたあと、「お友だちと写真撮って送って!」と電話を切った。

 とりあえずラインに、先日開催したたこパの写真を載せておいた。

 叶野が絶妙なテクニックで四人の顔とたこ焼きを画面に収めた集合写真だ。ちなみにきな子はまだ叶野と一緒にいるが、俺も巽も微笑ましく見守ることにしている。

 師匠と姉御もこちらに来てできた知り合いといえばそうなのだが、お友だちと言われるとちょっと違うなと思うし、あの二人の写真なんて持っていない。

 母からはわりとすぐ、


《千鳥くん相変わらずさわやかね~! あとこのリバー・フェニックス似のハンサムと不良漫画の実写映画に出てそうな金髪くんは誰?》


 と返事がきた。

 親子だなぁと思った。

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