#3-3 窓、鏡、視界の隅

「彼女が嫁いだ旦那がろくでもない男だったそうだ。愛人を二人も三人も囲っていて、子どもまでいた。大伯母と旦那のあいだには子どもが五人いるということになっているが、うち二人は愛人の子を引き取ったものらしい」

「ど、ドロドロですね……」


「それでも大伯母は家族を支え続けた。毎日にこにこ笑っていて、怒ったところを誰も見たことがない、穏やかな女性だったらしい。おかげで五人の子どもたちは実子も養子も関係は良好、それぞれ独立して家庭があるが、今もとても仲がいいそうだ。

 ただ旦那だけは最期までろくでなしだった。臨終の際になってなお、愛人の名を口にして死んだ。

 女関係がだらしない以外では立派な事業主だったもので、葬儀はかなり大規模になったらしい。喪主は実子の長男だった。葬儀の打ち合わせが済んで、さて通夜の準備をするかといったところで、大伯母が『なにかおかしい』と言いだした」


 ──なにかおかしい。

 ──どうしたの、母さん。

 ──わたし、ずっと笑っているわね。お父さんが亡くなったのに。


「慌てたのは周囲だ。故人の妻がにこにこ笑顔で通夜葬儀に参列するわけにはいかない。それなのにどうしても、大伯母の顔から笑みが消えない。仕方なくその日はマスクをつけて凌いだらしい。


 大伯母の笑みはその後死ぬまで消えなかった。

 数年後に病気で息を引き取る間際まで……いや亡くなってなお笑顔だったそうだ。

 湯灌した納棺師は穏やかなお顔ですと褒めたそうだが、事情を知る家族は笑えなかっただろうね。まるであのろくでもない旦那を見送るために長年作り続けた笑顔が、呪いのように貼りついてしまったみたいだったと、葬儀で大伯母の顔を見た薬袋の父親は言っていたそうだよ」


 師匠はアイスを食べる手を止めて、スプーンを手のなかで遊ばせながらぼんやりと中空を眺めた。

 この話をしてくれたということは、あの和装の女は大伯母であると考えているのだろう。ただそれにしては今の話の内容と、俺たちが目撃したあの姿や耳元で聞こえる溜め息と乖離している。


もね。手鏡に顔を映した人間を呪い殺そうとか、衰弱させようとか、そういうことは考えていなかったと思うんだ」

「彼女って……大伯母さんですよね?」

「そう。ただ彼女は、義母から受け取った手鏡を毎日身に着けて、自分の笑顔が崩れていないか確認していただけだ。子どもたちのために笑顔を貼り付けて、怒りや恨み辛みなんかの負の感情を押し殺した。その『もうひとりの彼女』がたまたま手鏡に蓄積されて、いつの間にかかたちを得て、あるじの死をきっかけに箍が外れた」


 ……ああ、そっか。

 あの激しい怒りや憎悪を感じさせる表情や、深い絶望を思わせる溜め息は、大伯母さんが長年自分のなかに埋めて殺してきた『もうひとりの彼女』のこころなのか。

 持ち主すら意図しないところで、長年降り積もった彼女のなかのあらゆる負の感情が手鏡に集約されてしまった。此岸に生きる人びとの強い思いは、良かれ悪しかれ彼岸のものに作用する。ときには周囲に散っていた瘴気や、よくないものを呼ぶこともあっただろう。

 そうして混ざり合った深い澱みは、人間の与り知らぬうちに悪影響を及ぼす。


 でもそれなら、もしかすると薬袋さんのおばあさんは、自分のお姉さんに殺されてしまったことになるのではないだろうか。


「……師匠の偏頭痛、あの人のせいなんじゃないんですか。薬袋さんのおばあさんも、従妹さんも、体調を崩していましたよね。薬袋さんが言ってたけど、従妹さん元気になったらしいですよ」

「ああ、それは聞いた。呪いが分散するタイプじゃなくて良かったよね」

「良かったけど、姉御は怒ってますからね?」


 師匠は半分ほど残したカップアイスに蓋をかぶせてテーブルの上に置いた。全部食べるのもしんどいのか。そのわりにしれっと「藤は勝手に怒らせておけばいい」とか言っている。


「偏頭痛は天気のせいだよ。今日は巽も死んでたんじゃないの。春先の爆弾低気圧のとき、骨折したとこ全部痛いってうんうん唸ってた」

「でも……」


 俺はちらりと、先程窓に反射していた本棚を見た。

 背の高い書架が迷路のように立ち並ぶ書斎のなかで、一番手前にある黒い本棚。

 今は何もいない。

 もしかしたら場所を変えて別のところから睨んでいるかもしれない。

 俺の肩越しに師匠を睨んでいたとしても、俺の目には視えない。不用意にそんな想像をしてしまい、両腕にわっと鳥肌が立った。


 薬袋さんの従妹が回復したことは、もちろん喜ばしい。

 弱い見鬼の女の人よりも、平気な顔で心霊スポットに分け入る師匠が呪われたほうが、多分まだ太刀打ちできるだろう。

 だけど、もっと他の方法を検討してみてから行動に移したってよかったのではないか。こんな師匠ひとりが割を食うような、姉御が怒りのあまり泣いてしまうような、危険な方法でなくたって……。


 そのとき俺ははたと閃いた。心のなかで叫ぶ。──エウレカ!


「そーだ、手鏡写したら移動するんですよね。俺と巽巻き込んで、三人でローテ組むのはどうですか!」


 師匠の左眼がまん丸になった。

 我ながら天才だと思ったのだが、師匠はすぐに真顔のまま噴き出して、それから体をくの字に折り曲げて笑いはじめる。


「ふっ……ふふ、あは、あっはっはっは」


 ソファの上でのたうち回りながら声を上げて笑っている。

 ひぃひぃ言いながらとにかく笑っている。

 こんなに笑う師匠初めて見た。笑い転げるという言葉がとても似合う有様だが、普段の飄々とした様子に慣れているぶん違和感がすごい。


 笑う。

 ……まだ笑う。

 しつこいくらい笑う。もういいのでは。

 そろそろ怒るべきかと俺の眉間に皺が寄りはじめると、師匠は目尻を指で拭いながら(泣くほど面白かったのか……)、いやいやいやと首を振った。


「そんなことして二人とも耐えられるの?」

「…………」


 自信満々で大丈夫ですと言えない自分が、憎い!

 スンッと真顔になって黙り込んだ俺に、師匠はようやく体勢を整えて微笑んだ。


「そんなに心配してくれなくてもね、今回はタイミングが良かったから」

「タイミングですか」

「そう。四日後にはまた招集をかけるから、心の準備をしておきな」

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