#3-2 窓、鏡、視界の隅

「──オギャアアアア師匠ぉぉ!!」


 変な叫び声が出てしまった。俺はリュックサックを放り投げ、ぐったりと身を投げ出している師匠を抱き起こす。

 師匠の体は思いのほか薄く、軽かった。ほんとうに生きた成人男性なのか? やっぱり狐狸妖怪の類いなんじゃないのか?


「師匠、師匠起きてー! ハッ、救急車きゅうきゅうしゃ……」

「うるさ……」


 師匠の白い手の甲が、ぺちりと俺の頬を叩く。

 膚は冷たく、顔も蒼白いが、どうやら呼吸はしているみたいだ。よかったちゃんと生きてる。あまりの安堵にぶわーっと涙が出てきた。


「し、師匠、死んだかと思った!」

「秋津くん……きみって、なんで驚いたとき『オギャア』って言うの……赤子なの」

「……つっこむ元気があるなら何よりです」


 人の叫び声ばっちり聞いてんじゃねーよ。

 改めて真面目に言われるとなんだかテンパった自分が恥ずかしい。一瞬で寿命が十年くらい縮んだような疲労感に笑いながら、俺は師匠を支えて立ち上がった。

 やっぱり軽い。


「具合悪いんですか。熱でも?」

「今朝から偏頭痛がひどくて。薬を飲もうと思って、転んだところに呼び鈴が鳴ったんだよ」

「薬どこにあるんです。俺が取ってきますよ」


「待って」ソファに横たわった師匠は、腰を上げた俺の手を掴み、薄い笑みを浮かべて窓を指さした。


「その前に、見て御覧」


 言われた通り、莫迦正直に窓を見る。

 外は雨天に薄暗く、電気がついて明るい書斎の景色を反射していた。窓を見る俺、ソファの手摺に体を凭れさせた師匠、書斎の扉、背の高い本棚。



 本棚のそばに立つ、和装の女。



「ヒョエッ……」


 弾かれたように振り返る。当然、誰もいない。いないけど!


 ……いないけど、いるのだ。

 師匠に憑りついた、手鏡の女が、そこに。


「やっぱり視えた? ぼくと一緒に映ると影響を受けるんだね。手鏡を直截見たわけじゃないから、秋津くんに憑いていくことはないと思うけど」

「エッ、メッチャ師匠見てる、メッチャ師匠見てますよあの人」

「ねー。けっこうゴリゴリの殺意を感じるね」


 いや「ねー」じゃないから。

 俺はバタバタと窓に駆け寄りカーテンを掴んだ。念のためもう一度見た。

 本棚のそばに立つ和装の女。俺の目には全体の雰囲気と、着ている着物が渋い藤色をしていることくらいしか判らない。年齢や目鼻立ちまでははっきりとしなかった。


 ただ、とても……怖い顔をしている。

 怒っているのだ。その怒りを師匠に向けている。

 無言で、ひたすら。


「もおおおおバッチリ移ってるじゃないですかああああ」

「同時に二人を呪うことはできない。呪いは分散できない。これでこの手鏡の大まかなシステムは決まったね」

「考えなしに手鏡に顔を映したりするからぁ! なんであんな無茶したんですか!」


 シャッと勢いよくカーテンを閉める。薬袋さんの従妹の話を思い出していた。俺よりも弱い見鬼の女の人が、鏡や窓を見るたびにあんな風に睨まれるなんて、どれほど恐ろしかっただろう。あんな女に四六時中付き纏われたら俺だって参る。

 こうなってみるとあの怒りを「ゴリゴリの殺意」とか表現できちゃう師匠のところに移ってくれてまだ良かったかもしれない。

 ワアワア喚く俺に「うるさい大きい声出さないで」と蟀谷を指先で押さえた師匠は、


「だって気になるじゃない、呪われたらどうなるのか。それに」

「それに!?」


 勢いで訊き返すと、彼は小さく息を吐いて、頭を左右に振った。そのせいで頭痛の波が来たらしく、喉の奥で小さく呻いてソファに逆戻りする。


「……なんでもない……」


 あまりにもつらそうな様子に、追及する二の句が継げない。

 師匠は片腕で顔を覆った。


「悪いんだけど、電気消して」

「あ……はい。そういえばアイス買ってきたんですけど、食べます?」

「もらうよ。台所から水、取ってきてくれる?」


 薬はと訊ねようとしたが、それより先に床に落ちていた錠剤のシートを見つけた。薬は携帯していたけど、水を取りに行こうとして倒れたのか。

 言われた通りに電気を消し、水を取って戻ってくると、師匠は先程と寸分違わぬ体勢で静かに深呼吸をしていた。


 ……なんか、へんなの。

 師匠が弱っていると調子が狂う。


 上半身を起こして、鎮痛剤を水で流し込んだ師匠は、ソファにぐったりと身を預けたまま俺が買ってきたカップアイスを食べ始めた。


「何か用事でもあったのかい」

「……別に。あまりにジメジメするので、湿度と気温の快適な師匠んちに避難しようかと」

「暇なんだねぇ。バイトでも始めたら?」

「いま探し中です」


 大きい声を出すなと言われたのでちょっとトーンを落としていたら、師匠がフッと笑った。何がおかしいんだ全く。


「薬袋から手鏡に関する続報が入ったんだけど、聞くかい」

「……喋るのがしんどくないなら」


 師匠は少し黙って、それから口を開く。


「まず、手鏡にいる女は誰なのかという問題だ。

 この手鏡に関わる女性は四人。従妹、おばあさま、大伯母、その義母。手鏡の傷みようからしてそこまで古いものでもないから、義母の代で製作・購入されたものとみていいだろう。鏡というものは霊性を帯びやすいという話はしたが、例えばその辺りをうろついている浮遊霊みたいなものがたまたまこの手鏡にひっついた、という可能性は限りなく低い。有り得ないとは言えないけれど。それよりは、肌身離さず持っていた持ち主の情念が焼き付いたというほうがそれらしくはあるだろう」


 俺はちらりと先程女が映った窓のほうを見た。

 カーテンを閉めたので今は視えない。しかしあの冴え冴えとした怒りの表情、淡い藤色の着物は思い出すことができる。


「とりあえず従妹は除外だ。着物を着ている点と、薬袋から聞く従妹の性質からして、手鏡なんかに焼き付けるほどの強烈な怒りが持続するタイプの女性ではない。

 仮に義母があの女だとすると、その死後、大伯母は二十五年に渡りこの手鏡と呪いを所有し続けたことになる。あの女の溜め息を二十五年、聴き続けられる?」

「いや無理です。死んでも御免です」

「そう。いかに鈍感でも無理だ。大伯母が薬袋タイプの零感だったら或いはとも思ったけど、そしたら薬袋が大伯母の嫁ぎ先の話を調べてきてくれた」


 薬袋さんは二日前に古瀬邸を訪れて、「みーちゃんのことはおまえが悪いんだからな」と師匠を一言責めたうえで、こう語ったという。

 大伯母はどうも妙な亡くなり方をしたらしい、と。

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