#3-1 窓、鏡、視界の隅

 どんよりと、頭が痛むような雨天が連日続いていた。


 たいへん幸いなことにお天気痛や偏頭痛とは無縁の健康体を親から授かった俺だが、こうも雨が降り続くと体が重たく感じてくる。

 俺でさえこうなのだから、気圧に繊細な師匠はしんどいだろう。

 そして意外なことに巽も気圧や雨に弱く、体質というよりかつて事故で骨折した箇所が軋むのだといって連日具合が悪そうだ。


 姉御が怒りのあまり泣きながら古瀬邸を飛び出してから数日が経つ。

 あの日は薬袋さんまで呆れて、


「死に急ごうが何しようがおまえの勝手だが、みーちゃん泣かすのは違うだろ」


 と帰ってしまった。

 その後、若干不機嫌になった師匠にシッシッと追い払われてしまい、俺はその後なんとなく気まずくて古瀬邸を訪ねられずにいる。


 巽は姉御に、薬袋さんの従妹のためを思っての行動なのですからと師匠をフォローするようなメールを送ったらしいのだが、『今度という今度は怒りましたから!』とにべもない返事をもらったらしい。

 俺は師匠に、姉御が心配してますよちゃんと謝ったほうがいいんじゃないですかとラインを送ってみたのだが、『そのうち忘れるから放っておきなさい』という返事がきた。いや、いくらなんでも忘れないと思うけど……。


「ったく、変なとこ頑固っていうか……」


 年上二人のけんかを憂いつつ、大学構内のコンビニで飲み物を買って出ると、見覚えのある学生がこちらに向かって手を振っていた。

 薬袋さんだ。


「よう、秋津クン」

「こんにちは。その後、従妹さんの具合はどうですか?」


 訊ねると、薬袋さんは苦い顔になって頷いた。


「ああ……。腹が立つことに、あの野郎の仮説が当たってたみたいだ。手鏡を預けたあの日から従妹のもとに女が現れなくなって、体調も回復したらしい。あいつのほうに移動したんだろう」

「そうなんですね。何はともあれ、それならよかった」


 姉御がああも怒ったのは、ろくすっぽ話し合いもせず師匠が鏡の呪いを自分に移そうとしたからだ。

 それについてはもう起きてしまったことなので仕方がない。せめて薬袋さんの従妹が回復したならば、師匠の無謀も少しは報われる。


 となると問題は、呪いの対象が真実、師匠に移ったかどうか、である。

 触らぬ師匠に祟りなし──とここ数日はそっとしておいたのだが、師匠のほうがどうなっているのか、いい加減に確かめなければなるまい。確かめたところでビビリ眼鏡の俺にはどうすることもできないのだが……。

 ご機嫌取りにアイスでも買って行くかな、と考えていたら、薬袋さんが目をぱちぱち瞬かせて首を傾げた。


「おまえ、あの三人とちょっと違うな」

「違……いますか?」

「古瀬とみーちゃんは、ちょっと見てて心配になるとこあるんだよ。弟子一号もそっち寄りだ。気付いたらフラッとどっか行っちゃって、二度と帰ってこなさそうな感じ」


 その印象には心当たりがある。

 藤沢台1踏切のときに判明した諸々のこと。生きていたくない気持ちが強すぎる姉御、男三人のなかであの少年に択ばれた師匠、ついでに一回心停止したらしい巽。


「秋津くんはどっちかっていうとおれの従妹に似てるな。何だかんだ、ちゃんとに帰ってきそうだ」

「ええ……なんか薬袋さん怖いこと言ってますよ……」

「そうか?」


 薬袋さんはからりと笑った。


「古瀬のこと、よく見てやってくれよ。みーちゃんはあんま強いこと言える性格じゃねえからさ」


 まあ、慥かに。

 このあいだだって姉御は、カッとなって怒鳴り散らそうと口を開いたはいいものの、いざ怒ると頭が真っ白になって言葉が出てこない……という様相だった。

 怒り方にも色々ある。俺はわりとワーワー喚くタイプだし、身近な例だと千鳥はスンッと冷静になって理詰めで攻めてくるタイプだ。うちの妹は俺と同じで早口に捲し立てるほうだが、弟は頭が真っ白になって言葉が出てこない姉御タイプ。

 師匠が怒るところは、あんまり想像できないけど、千鳥と似た感じかな。

 巽はキレたら罵倒と拳が出る。怒らせないようにしよう。


 その日の講義を終えてから俺は大学を出て、道中でコンビニに寄り、師匠の好きなカップアイスを購入して古瀬邸へ向かった。

 雨が降り続いている。

 こんもりと繁る前庭の緑がしっとり濡れているのを眺めながら、俺は門柱の呼び鈴を押した。邸のほうでりんごーんと音が聴こえる。


 動きののろい師匠のことだから、書斎で呼び鈴を聞いて、誰だよめんどくさいなとか思いながら腰を上げて、あー雨鬱陶しい、とかぼやきながら書斎を出てくるんだろうな……とシミュレートしていたのだが、一向に応答がない。

 待つ。

 まだ待つ。

 傘の先からぽたぽたと滴が垂れるのを眺めながらもうちょっと待つ。


 ……もしかして師匠、いないのかな。

 趣味で心霊相談を承っている人だけど、本職は幸丸大学理工学部ナントカ学科だってこのあいだ聞いたし、大学にいるのかもしれない。留守でも入っていいよと言われているから深く考えず巽と屯していたのだが、理系の三回生が暇なわけがないのだ。恐らく何曜日の何コマ目は授業でいない、みたいなスケジュールがあるはず。全然憶えていないけど!

 師匠がいないとしても、以前出迎えてくれたメイドの玉緒さんがいると思うのだが、お休みなのだろうか。


 一応、なかに入って気配を窺ってみようか。

 門を押し開け、鬱蒼とした小径や飛び石を渡りきり、まずは建物向かって左側の二階の窓を見上げてみた。

 電気は消えている。人影もない。

 その下、一階の応接間の掃き出し窓は鎧戸が閉まっていてよくわからない。壁に沿って側面に回り込むと応接間のもう一つの窓があるが、こちらも閉まっている。その奥が書斎の窓だ。

 鎧戸が開いている。

 窓は閉まっていたが、カーテンが開いていた。わざわざ覗き込みはしなかったが、室内の電気がついているのも判る。


「なんだ、やっぱいるんじゃん……」


 さては億劫がって居留守を使ったな。

 玄関ポーチまで戻った俺は傘を畳み、壁に立てかけた。深緑の重厚な扉のドアに手をかけると、重い感触はあったが開いている。

 ひんやりとした空気が流れてきた。

 冷房でもつけているのかと思ったが、手触りが違った。冷えた氷から漂う冷気に似ている。

 二階でガタンと音がした。師匠の私室などがある二階には、今のところ用事がないので上がったことがない。部屋にいて呼び鈴が聴こえなかったのかな。


「師匠……?」


 なにやら邸内の空気がざわついている。

 気配がするのだ。

 人、というよりは、ペットショップで感じるような小動物の気配に近い。さわさわさわ……、と空気が動くような、妙な音が聴こえる。

 なにか変だ。

 いつもの古瀬邸ではない気がする。


「し……師匠ー! こんにちはー!」


 声をかけつつ書斎へ一直線に向かう。あまり長いこと一人でいたくなかった。よく考えなくても、ここは本物のおばけがいるおばけ屋敷なのだ。普段は師匠たちがいるから全然気にならなかっただけで。


 というか、なんか、足音が多くないか?

 気のせいか? 気のせいだよな。うんきっと気のせいだ。


 震える手で書斎の扉を開け放つと、床に師匠が倒れていた。

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