#2-2 呪いの手鏡

「従妹はばあさんっ子でな。

 特になんにも考えず、ただ一人でゆっくり偲びたいと考えて部屋に入ったらしい。

 部屋の整理は少しずつ進んでいたが、大方の家具は祖父の希望でそのまま残してあった。洋服もまだ捨てられなくて、クローゼットの中身も手つかずだ。だから多分、これも一年間、誰にも見つからなかったんだろう。


 どうも鏡台のあたりから嫌な感じがしたらしい。

 祖母の嫁入り道具だった鏡台だ。大きな三面鏡がついているが、そっちはさすがに閉じて布がかけられている。以前までは嫌だなんて微塵も感じなかった、ばあさんの大事な化粧台だ。従妹は不審に思って鏡台を調べた。

 自分程度の霊感で判るんだから余程のものに違いないと考えたんだと。下手に触れるのもどうかと躊躇したが、そんなものが祖母の大事な鏡台に収まっているのは許せない。鏡を開けて中を覗き込み、抽斗の中身を検めた。


 それで──抽斗を開けて、この手鏡を見つけた。


 手に取って、大抵の人がそうするように当たり前に鏡を覗いた。曇っていてよく見えなかったが、手鏡のなかに自分でない女の姿が視えたそうだ。一瞬でまずいと悟った。鏡から目を逸らした瞬間、室内に気配が増えた、と言うんだ。

 鏡のなかにいた女がこっち側に出てきた、と従妹は言う。

 ふとした瞬間に視界に映るんだと。視界の端っこって、何かがあっても何なのか判らん、って限界のところがあるだろ。その限界の辺りにじっと佇んで、こちらを睨んでいる、判らないけど睨まれていると感じる……女がいるらしい。

 視ようとして振り返って、視界の真ん中に入れようとすると消えている。


 次第に頻度が増した。

 何をしていても常に視界の端が気にかかる。

 それに加えて、女の溜め息が耳元で聞こえるようになったという。

 やがて女の姿が、鏡に映り込むようになった。洗面台の鏡、風呂場の鏡、化粧するときの鏡も、家にある姿見も全て。

 エスカレートすると、鏡以外のものにも映り込むようになってきた。パソコンやテレビやスマホの液晶画面、家や短大の窓、車の窓……とにかく反射するものには何でもだ。


 さすがに参った従妹が倒れて、それでようやくおれのところにラインがきたんだ。

 おばあちゃんの手鏡にいた女に憑りつかれた。

 おばあちゃんももしかしたらこの女に殺されたのかもしれない、って。


 従妹はいま自宅で静養しているところだ。一時期は入院の話も出たが、本人がとにかく嫌がったんでな。病院にまでついて来てしまったら今度こそ頭がおかしくなる、と」


「……成る程ね……」


 師匠はすらりと脚を組むと、膝に頬杖をついて手鏡を見下ろした。


「この手鏡、もとはおばあさまのお姉さんのものだと言ったね。その大伯母君について詳細は?」

「親父に訊いたところ、鎌倉に嫁入りして色々苦労していたようだ。ばあ様とは手紙や葉書のやりとりをしょっちゅうしていて、仲のいい姉妹だったらしい。大伯母が亡くなったのは一昨年だ」

「大伯母君にこの鏡をやった義母が亡くなったのは?」

「いつかまでは知らん。が、けっこう前のはずだ。二十年とか三十年とか」

「それより以前の手鏡の持ち主なんて、いたとしても判らないだろうね」

「ああ。薬袋家のことならいくらでも調べられるんだけどな。大伯母も亡くなって交流もあんまないし、鎌倉はもうほとんど他所んちなんだ」

「…………」


 慥かにな、と俺はうなずいた。祖父母のことなら程々に知っているが、その兄弟姉妹ともなると、せいぜい葬儀や法事で顔を合わせるくらいだ。「どこそこに住んでいる」程度なら知識として頭に入っているけどその家の内情まではよく解らない。


「薬袋はこの手鏡を預かっていても何もなかったんだな?」

「受け取った時点でグルグル巻きだったがな。伯母さんもちょっと嫌な顔して持ってたが、おれ自身は全く何も感じない。だから保管するだけならおれでも支障はないだろうが」

「ここまで露骨に情念が洩れていると普通の人でも本能的に避けたがるものなんだけどね。……形見分けとかいって、嫌な感じのするものを押し付けられただけなんじゃないのか」

「おれはその通りだと考えている。──従妹は、そういう悪意を信じたくないみたいだ」


 師匠はふと扇子を取り出して、手のなかで弄び始めた。

 漆塗りの親骨を押し開き、ぱちんと閉める。思考を整理するように一定のリズムでぱちぱちと音を立てながら、やがて恬淡な声音で語りはじめた。


「古来鏡は極めて神秘的なものとして、化粧道具としてよりも先に、祭祀の道具としての性格を帯びていた。鏡の面は世界の『あちら』と『こちら』を分ける境界であり、鏡の向こうにはもう一つの世界があるのだ、という観念は世界各地に見られる。三種の神器の八咫鏡、閻魔大王の浄玻璃鏡、『鏡の国のアリス』に『白雪姫』……鏡が重要な役割を果たす伝承や作品も数多い。そして実際、霊性を帯びやすい媒体でもある」


 ぱちん。

 前髪に隠されていない師匠の左眼が中空を彷徨い、どこか遠くを眺めるように焦点を失う。


「単なる呪いのアイテムなら、川に投げ込むとか粉々になるまで割るとか、鎌倉に送り返すとか燃やしてしまうとか対処のしようもあるんだけど。今回は明確に対象がいるわけだし、下手を打つと被術者に何が起こるか判らないからやめておこう。さてどうしたものかね」

「おまえに任せる」

「……原型は残らないかもしれないが構わない?」

「構わん。慥かにこの手鏡はばあ様の形見みたいなもんだが、ばあ様は亡くなって一周忌も済んだ。死んだ人間は生き返らない。手鏡が壊れることよりも従妹が死ぬ方が大問題だ」


 ぱちん。

 師匠が肩を竦める。

 どうやら彼には、薬袋さんの言葉は予想できていたらしい。


「向こう岸のもののために、こちら側の俺たちは心を囚われるべきではない。そうだろう」

「仰る通り。……耳が痛いね」


 ぱちん。

 全員が口を噤んだところで、扇子の音が応接間に響く。師匠はテーブルの上に扇子を置いて、いまだ鏡面が下を向く手鏡の持ち手を無造作に掴んだ。


「鎌倉彫だね。手作業のものや歴史あるもの、人が長く身に着けるものには魂が籠もりやすい。恐らくこの手鏡のなかにいたのも……」



 とつぶやくや否や、師匠は手鏡をぱっと翻して鏡面を覗き込んだ。



 あまりにも自然な動作だったので、薬袋さんが絶対に映るなと忠告したことさえすっかり忘れていた。はっと思い出したのは、向かいのソファから身を乗り出した姉御が師匠の手を勢いよく打ったからだ。

 放り出された手鏡がゴンと鈍い音を立ててテーブルを弾き、滑って、俺の足元に落ちる。慌ててハンカチと風呂敷を上からかぶせた。鏡がどっちの面を向いているかなんて確認するのも恐ろしい。


「……何、してるの!」


 姉御が鋭い声を上げる。

 怒っている。

 姉御が。


 その横の薬袋さんは師匠の正気を疑う顔だ。多分俺と巽も同じような顔をしている。


「おまえな、人がなんのために顔を映すなと忠告したと思ってんだ……」

「情報が少なすぎて判断がつかないんだよ。成る程慥かに手鏡に顔を映した相手が不調を来たすようだ。例えば従妹が呪われている現状で、別の人間が手鏡に映った場合、呪いの対象も移動するのか。二人同時に呪われるのか。それとも最初の人間を呪い殺すまで移動はしないのか。今の話を聴いた限り次に死ぬのはおまえの従妹だよ、薬袋。移せる呪いなら移したほうがいい」


 姉御はテーブルの上に握りしめた両手を真っ白にして師匠を睨んだ。


「っ……!」


 何か言おうとして口を開き、はくはくと戦慄いて、それでも言葉が出てこず顔を逸らす。代わりにその白い頬を涙が伝った。


 これには師匠もぎょっとする。

 ビクッと肩を震わせて、左目を丸くし、手に持っていた扇子を落っことした。


「……いや……ひ、藤、え、ちょっと」

「……、……」

「あの……泣くなよこの程度で」


 あ、師匠ばか。


 姉御はキッと眦を釣り上げ、足元に置いてあったトートバッグを掴んで振りかぶる。驚きの反射神経で俺と巽がサッと避けると、姉御は教科書やペンケースが入っているであろうバッグで力いっぱい師匠の顔面をぶん殴った。


 ──ばごんっ。


 かなりいい音がした。姉御はそのままバッグを放り投げて、「ばか」「しぃちゃんのばーか」「おたんこなす!」などと言い捨てながら書斎を出ていく。平素麗らかで物静かでまるで春の妖精のような佇まいの姉御が、書斎の扉をバタンと閉め、パンプスの踵の足音も荒く、玄関扉まで大きな音を立てて閉めていった。

 かつかつと前庭を遠ざかっていく足音は速足だ。

 財布もスマホも入ったままであろうバッグさえ置き去りにして、姉御は去ってしまった。


 薬袋さんは「あーあー、泣かした」と露骨に莫迦にしたような顔と台詞で、顔面を手で押さえて悶絶する師匠を眺めていた。

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