#2-2 呪いの手鏡

 薬袋さんは足元に置いたビアンキの黒いリュックから紙袋を取り出した。師匠が受け取り、無造作に口を開ける。

 中身は案外小さい。躊躇なく師匠が掴んだものは縮緬の風呂敷に包まれていた。風呂敷のなかから出てきたものは、そのうえハンカチにくるまれている。「厳重だな」と、いつもより若干気安い口調で師匠が愚痴を零した。

 一方の薬袋さんは苦い表情をしている。


「父方の祖母の遺品だ。開けてもいいが、絶対に鏡に顔を映すなよ。少なくとも今は」


 鏡という単語を聞いた師匠はハンカチの結び目を解いたあと、まず持ち手の部分を露出させた。

 慎重にハンカチをずらして、鏡の面が下を向いていることを確認してから全て取り払う。


 師匠の手のなかにすっぽりと収まるほどの、小さな手鏡だった。

 漆塗りが黒く上品に輝いている。現在上を向いている裏面には、梅が三輪彫刻されていた。父方の祖母の遺品といったが、慥かにその年代の女性の持ち物という雰囲気がする。

 本体が姿を現した瞬間、応接間の空気がぴんと張り詰めた。


 ──はぁ……。


 耳に届いた溜め息に視線を上げる。

 師匠でも、薬袋さんでもなさそうだ。意味はないだろうけど耳の辺りを手で払ってみた。さすがに本体が目の前にあって原因がはっきりしているので、先程のようにパニックを起こすことはない。


 ただ、やだな、と思う。

 なんだかうなじの辺りがぞわぞわするのだ。

 暗く、どうしようもなく落ち込んだ気持ちの人が背後すぐ近くにいて、恨めしげな顔で後頭部のあたりをじぃっと見つめてきているような、そんな不快感がする。

 師匠が無言で手鏡を見分しているあいだに、薬袋さんが沈黙を埋めるように俺を見る。


「見ない顔だな。噂の弟子か」

「あ……弟子その二の秋津綾人ともうします」


 ぺこりと頭を下げると、薬袋さんは「薬袋だ」とこれ以上ないくらい端的に名乗ったあと、チノパンのポケットから名刺入れを取り出した。


「経営学部経営学科三回。茶道部花穎会の代表をしている」

「茶道部……ということは姉御と同じ部なんですね」

「そういうことだ。あの子つながりでこの性悪と知り合った」


 すごい。師匠を性悪と断言した。

 内心感動しているうちに、お茶の用意をしに行っていた姉御が巽とともに戻ってきた。巽の顔色はなんとかマシになっているが、それでもよろよろと姉御を手伝おうとしている。危ない。


「巽くん、いいから座ってなさい」

「すんません……」


 と、いつも通り師匠の横に座ろうとした巽が、彼のその手に収まっている手鏡を見てウッと顔を引き攣らせた。……人間のかたちをしてたら飛び蹴りできるくせに、手鏡は無理なのか……。

 見鬼歴でいうと巽より十六年も先輩なのだし比較的平気な俺が我慢せねばなるまい。師匠の隣に詰めて、巽を反対隣りに誘導した。

 姉御から水出しアイスコーヒーを受け取った薬袋さんが悪戯っぽく笑う。


「姉御なんて呼ばれてんのか、みーちゃん。キャラじゃねぇな」

「巽くんが呼び始めたの。いちいち呼び名が変わるのが覚えられないって」

「あー古瀬とかフルカとかな。別に本名を知られたところで不都合はないんだろう?」


「ないよ」と口を挟んだのは手鏡を置いた師匠だ。「ただし本名を呼ぶ機会もないけれど」

 薬袋さんはふぅんと適当に流すような雑な相槌を打ったあと、立てた親指で姉御を指さした。


「湊ひなた、こいつの本名な。部では専ら『みーちゃん』だもんで、おれもそう呼んでる」


 こんなところで姉御の本名が判明するなんて。

 薬袋さんに紹介を受けた姉御は、おお、と目を丸くしてうなずいた。


「そういえばいつも『姉御』って呼んでくれるからあまり気にしてなかったね。ちなみにこちらの薬袋も部では『みーちゃん』と呼ばれています」

「ややこしっ」


 思わず口に出てしまった。

 それにしても、湊ひなた、か。ずっと師匠がフルカとか藤香とか呼ぶのを聞いていたせいでしっくりこない。本名と言うからにはその通りなんだろうが、俺にとっての姉御はやっぱり姉御だ。

 というか──


「師匠の呼び方、本名に掠ってもいないし……」

「当たり前だろ。そのための呼び名なんだから」


 偉そうに踏ん反り返る師匠の前に水出しの玉露が置かれた。

 俺は姉御からアイスコーヒーとアイスティーを受け取り、アイスティーを巽のほうにスライドしていく。


「藤は視えすぎるんだという話を以前したね。普通の人間より圧倒的に彼岸に近いところにいるせいで色々厄介なこともあるんだ。だから名前や誕生日など個人を特定できる情報を曖昧にしておく必要がある。薬袋や他の学生みたいな普通の人間は構わないが、ぼくらのような見鬼の『聲』は響きが異なり、彼岸のものにも聞こえやすい。対策は打ってあるが、おまえたちも迂闊に本名を呼ばないように」

「へぇぇ。じゃあ師匠が偽名を使っているのもそういう理由なんですか」

「ぼくのは家庭の事情」


 どんな事情だ。

 しかし師匠は説明する素振りも見せなかった。

 最後に姉御が自分のコーヒーを手に、薬袋さんの横に腰を下ろす。

 応接セットのテーブルの上には、人数分の飲み物と、伏せて置かれた小さな手鏡。状況がひと段落したところで薬袋さんが扨てと切り出した。


「こっちの同回生二人は知っていることだが、おれには霊感のある……おまえたちは見鬼と言うんだったか、ともかくそういう従妹がいるんだ」

「本人は零感だけどね」

「やかましいわド変態」


 率直だが的確な悪口である。

 師匠にそういう物言いができる人がいることに俺は感動した。そして師匠がその物言いを受け容れているということにも。


「師匠、レイカンって?」

「ゼロの零で零感。鈍感すぎて向こうのほうが避けて通るタイプの能天気人間のことだよ」

「おう。喧嘩なら買うぞ」

「二人ともいい加減になさい」


 姉御にぴしゃりと切って捨てられ、師匠と薬袋さんはしおらしく口を閉ざした。二人して姉御には逆らえないようだ。なんかかわいい。

 やがて気を取り直した薬袋さんが、膝の上で指を組んだ。


「まず、この手鏡の持ち主はおれの祖母だ。祖母も正確には祖母の姉、おれにとって大伯母に当たる人の持ち物だったものを形見分けで受け取った。その前を遡ると他家のことだから仔細は不明だが、大伯母も、義母から受け継いだものであるという話だ。

 父方の祖父母の家は長野にある。おれの親父は三男で神奈川にいるが、長男家族が長野にいて、次男は東京で独身貴族。霊感のある従妹というのは、長男である伯父貴一家の次女でおれと同学年だ。霊感があるといってもごく弱い程度で、たまに人と違う音が聴こえたり、嫌だなと思う場所やものがあったりする、その程度だそうだ。おれはそういうのはさっぱりだがな。


 祖母が亡くなったのは去年のことだ。

 大きな病気があったわけではなく、ちょっと体調を崩してそのままずるずると……って感じだった。従妹から連絡が来て、調子が悪そうだから早いうちに会いに帰ってきてくれって言われていたんだが、会いに行く間もなかった。……あのときはバタバタしちまって、みーちゃんにも迷惑かけたな。


 それで、このあいだ一周忌のために長野に行ったんだが、そのときに従妹が祖母の部屋に入ってこれを見つけたらしいんだ」


 これ、と言いながら薬袋さんは手鏡に視線を落とした。

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