File.5 右眼はまだやれぬ;呪いの手鏡

#1 気合いの入った呪詛のもの




 これは師匠のことを語るうえでは避けることのできない、彼の戦いの物語だ。





 叶野の足元にじゃれつくきな子に頭を悩ませている間に、日本各地は梅雨を迎えていた。

 連日連夜しとしとと雨が降り続く。

 俺の部屋には、なにか手を打たねばキノコかカビでも生えるやもしれんと怯えて購入した百円均一の除湿剤と、うっかりして出先で雨に降られてコンビニで購入したビニール傘二本が仲間入りした。この調子で傘を増殖させていては退去時に苦労するのが目に見えている、というか傘なんて二本も三本もいらないので、これ以上の購入は控えなければならない。

 じめじめして鬱陶しい自室とは違って、古瀬邸はいつもからっとしている。師匠が気温や湿度にけっこう敏感で、広い西洋館は空調設備と空気清浄機で過ごしやすい状態に保たれているのだ。ゆえに俺も巽も姉御も、自然と古瀬邸に集合することが多くなった。


 六月下旬のこの日、朝から絹のような細雨が音もなく降り続いていた。

 弟子ふたりは、大学の講義を終えておばけ屋敷に集合するや否やソファの上で向かい合い、携帯ゲーム機で熱い通信対戦を繰り広げていた。

 互いに中学生の頃にハマったソフトを持ち出しているのだが、なかなか白熱してしまい、ここのところのブームとなっている。ちなみにポケモン。巽が基本的に物理技でゴリ押ししてくるのに対し、俺は特性や積み技でねちっこく削ったり一発逆転を狙ったりしていく。性格出るなぁと思ったのは内緒だ。

 勝敗は今のところ五分五分。

 そんななか、最初に異変を感じたのは当然、大学から帰って単衣に着替えた師匠だった。


「…………」


 ふっ、と何かに呼ばれたように睫毛を上げ、読んでいた本を閉じる。すらりと組んでいた脚を解いて立ち上がると、小さな鎧戸を開けて外の様子に耳を澄ました。

 窓の外には花盛りを迎えた紫陽花が森のように立ち並んでいる。

 至っていつも通りの、おばけ屋敷の庭だ。


「師匠どうかしたんです?」

「……おまえたちは感じないか」


 基本的に何事も飄々と構えて、ペカッとした胡散臭い笑顔で全てを受け流す人だ。それが、本を読んでいた手を止めてまで反応を示す。俺たちもさすがに対戦していた画面を止めソファから立ち上がった。

 何を感じないというのか──師匠に近寄って窓の外を眺めようと、したときだった。


 ──はぁ……。


 誰かが左耳のそばで溜め息をつく。

 唇が耳朶に触れるほども近くで。


 ゾッとして耳を塞いだ。師匠は二歩離れた右側で、巽は師匠の背後にいる。左側には誰もいないはずなのだ。「なんだ、どうした」と目を丸くする巽も、次の瞬間には身を強張らせて辺りを見渡す。師匠だけが顔色を変えず、鬱陶しいな、とつぶやいていた。


 ──はぁ……。


 また溜め息が聴こえた。

 憂いを帯びた、低い女の吐息だ。くたびれたときの深呼吸ではなく、失望したり絶望したり怒りを感じたり怨みを抱いたりしたときの、呻くような溜め息。

 両耳を手で塞いでも微かな隙間から直截吹き込まれる。


 ──あぁ……。


 まただ。

 姿は視えないのに、溜め息だけがする。


「っ……師匠、これ……」


 これは、よくない。

 よくないモノだ。

 彼岸のもののなかには悪意を纏い、無作為に撒き散らす性質のものもある。見鬼の体質に振り回されること十八年、極まれに、街中に佇み瘴気をばら撒くヤバイやつや、そこにいるだけで周囲を腐らせる性質のやつとすれ違ったことはあった。できるだけお目にかかりたくない、関わり合いになりたくない、気配も感じたくない、常日頃であれば生えていない尻尾を巻いて一目散に逃げだす類のやつだ。

 この不穏な溜め息もそれと同じ。

 いや、上位互換かもしれない。だってこんなにも質感を伴っている。


 俺と一緒に立ち上がっていた巽はがくりと膝から崩れ落ちた。片手でソファの背に縋りつき、もう片方の手で口元を押さえている。今にも吐きそうな表情を見て焦った俺は「ギャアア」とアホみたいな悲鳴を上げながら駆け寄った。


「し、ししし師匠、巽が死にそう!」

「巽、おまえはあれだね……人間の形をしたものには強いくせに、人間の情念とか恨み辛みには耐えられないよね」


 師匠は冷淡にも(本当に冷たいことに)、吐くならトイレ行ってきな、と書斎の外を指さした。それが可愛い弟子に対する態度か!

 よろよろと立ち上がってどうにか歩きだした巽を支えていると、「いいから師匠についてろ」と振り払われた。あんな冷たい師匠を心配しているのだ、こいつは。なんてこった。


「本体は門前に着いたところだね。ずいぶん気合いの入った呪詛のものだ」


 呪詛に気合いが入ったも入っていないもあるのか。

 というか呪詛って。呪詛って!


「ええとそれではさっきの溜め息は……」

「本体から離散して撒き散らされたただの気配。いちいち怯えてちゃ話にならないよ」


 呆れ顔の師匠を、俺はジト目で見つめて無言で抗議する。ビビったもんはビビったんだからしょうがないだろこんちくしょー!


「いいかいビビリくん。家というものは、ただそこにあるだけで軽い結界の役割を果たすものだ」


 コン、と師匠が丸めた指の背で窓ガラスを叩く。

 俺はというと、門前に到着したというのえげつない気配を察知して全身に鳥肌を立てていた。慥かに門の方角に、とても嫌なものがいる。近付いてはいけない、逃げろ、と見鬼歴十八年の体が勝手に反応してガタガタ震えていた。


「正確には家というより門や塀などの境界が心理的な結界となり、家人以外のものは招かれなければ入ることができないんだ。生きていても死んでいても同じ。人間に近いものほどその結界は強く働く。だから余程強い自我がない限り、或いはこちらが無意識に招いてしまわない限り、ごく普通の彼岸のものは家のなかに入ってこない」


「……でも」俺はここで一旦言葉を切って、誠に恐ろしいことに移動しているの気配を探った。


「入ってきてますよね?」

「そうつまり、この邸に拒まれない者が、を連れてきてるってことだよ」


 この古瀬邸に──師匠の結界に、拒まれない者。

 巽と俺がここにいるということは、残るは一人しか思いつかない。師匠も同じ人を思い浮かべているのか、ハァァとうんざりしたような溜め息を零す。

 師匠のあとについて玄関ホールへ向かうと、ちょうど深緑の重厚な扉が開けられたところだった。


「……やっぱりおまえか」

「ただいま。しぃちゃん」


 花の綻ぶような笑みを浮かべて、こてりと首を傾げる、姉御。

 その仕草は筆舌に尽くし難く可愛らしいし、今日も顔がいいし、俺は姉御のことが大好きだが、今日はその隣にいる人が大変よろしくない。


 小柄な青年だった。

 姉御と同じくらいの背丈だ。目鼻立ちは少しあどけないので外見は年下のように見えるが、落ち着いた立ち居振る舞いや雰囲気からはどこか老獪な印象を受ける。

 彼はむすっとした顔で口を開いた。


「相変わらずヤな感じのする家だな」

「それが御大層な呪詛のものを人の家に持ち込んでおいて言うことか。薬袋みない


 言葉は二人とも刺々しいが、薬袋と呼ばれたその人は悪戯っぽく笑って、師匠はどこか呆れたような顔と声音だ。袖口に両腕を突っ込んで腕を組んだ師匠は、ひとまず応接間のほうを顎で示す。


「おまえのそれのせいでうちの弟子その一がグロッキーなんだよ。とっととその物騒なモンの話を聴かせてもらおうか」


 師匠の曰く、『気合いの入った呪詛のもの』。

 その気配は慥かに、この薬袋という人が背負うリュックサックから放たれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る