#3 そういうふうにできている

「……毛玉だよな?」

「薄いベージュの、でけぇケサランパサランみたいなやつだな」


 どうやら巽も同じように視えているようだ。

 その毛玉は大体サッカーボールくらいの大きさの白いもふもふだった。

 じっくり見ると少し黄褐色がかかっていて、アイボリーとベージュの間くらいの毛色をしている。だが頭や手足はない。タンポポのまぁるい綿毛のような形だ。自我が多分あり、ひたすら叶野の後ろをぴょんぴょこついて回っている。動きだけ見るとウサギっぽくもあるのだが、外見上は巽の表現したようにでかいケサランパサランだ。


 三コマ目の講義が行われる教室へ向かう千鳥と、その隣の叶野の後ろを追いかけながら、俺たちは毛玉の動向を見守った。

 いや俺たちは揃って轢き逃げされて亡くなった女性を黒いオオサンショウウオとか言った莫迦弟子なので、あれが実際は毛玉ではない可能性は無きにしも非ず。というかその黒いオオサンショウウオを引っ掛けていたのもまた叶野だったなと思い出し、俺は深い溜め息をついた。

 叶野ォ! なんで女子以外にまでモテてるんだ! 顔がいいからか!?


「いつからあんなの憑けてるんだろ、叶野のやつ」

「わからん。この間のたこパんときはなかったろ」


 むむむと俺たちの視線の先で、毛玉は歩く叶野の長い足に蹴っ飛ばされてころころと転がった。

 なんだか本当にサッカーボールみたいだ。自分から望んで蹴られにくるサッカーボールなんて、聞いたことないけど。


「絶対なかった。……悪い影響がありそうなら師匠に相談してみよっか」


 ああいうものは害意があると厄介だ。

 だがそうではなくて、何も考えていないものとか、何が何だかよくわからないようなものは、雨の日に葉っぱを這うかたつむりと大差ないものだ。

 そこにいるのが視える、だけどそれだけ。かつて黒いオオサンショウウオと呼んでいた彼女が、叶野や俺には危害を加えなかったのと同じ。

 毛玉は結局叶野から離れることなく、一日中、足にまとわりつき続けた。



 見鬼、と師匠が呼ぶこの体質との付き合いも十八年に上る。

 視界に映る彼岸のものは、そのほとんどがよく判らないモノだった。靄とか、塊とか。人間っぽいなと思うシルエットとか、手足だけとか、目だけとか。何か喋っているのが聞こえても意味を為していなかったり、意味がわからない呻き声だったりした。五体揃った人間のかたちのものを視たのは、四月、八束隧道のそばに佇んでいたあの女性が初めてだ。


 世間によくある怖い話では「死んだおじいちゃんがいた」とか「死んだ母が守ってくれた」みたいなエピソードがあるようだが、俺は鬼籍に入った曾祖母や伯父らしきものに会ったことはない。

 会いに来てくれたなら、この人とは違う体質も少しはましに思えるかもしれないのに。


 叶野の足元にまとわりつく毛玉は明らかに叶野をターゲットにしている。

 害意は多分、ない。毛玉の出現から一週間が経つが、叶野はいつも通り元気で、毛玉もいつも通り叶野のそばにいる。嬉しそうにすら見える。もしかしたら毛玉は叶野に会いに来たのかもしれない、とさえ思う。

 叶野には視えないのに。


 どうしようもない報われなさに心が落ち込む。俺にどうしてやれる話でもないのに。

 師匠や姉御ならいい解決法を知っているだろうか。巽とは叶野に害があるようならと話したが、やはり早々に相談してみたほうがいいのではないか。そんな思考を頭のなかで捏ね繰り回しながら、十一号館の前を通りかかったときだ。


「秋津くん」


 リュックの隅を軽く引っ張られてよろめいた。

 一歩横にずれたところで顔を覗き込んできたのは姉御だ。姉御、と呼ぼうとした俺の肩を白いものが掠める。



 ぐしゃりと重い音を立てて地面に激突したのは人間だった。



「あ───」


 一瞬、人間に視えた。

 髪の毛が長い。女だ。服装はグレー。仰向けに倒れて後頭部から飛び散った血や脳漿が暖色の煉瓦道をどす黒く染めている。力なく開かれた眼には、青い、青い、空が、


 空が、


「秋津くん」


 姉御が俺の手をすいっと握った。

 冷たい指先だった。

 はっと呼吸を思い出して瞬きをした次の瞬間には、女が倒れていた場所に、白い綿のような翳が倒れていた。だが多分、これは、女性なのだ。十一号館六階から飛び降りた女性───


「いつものことだから、気にしないでだいじょうぶ。前にも言ったでしょう」


 姉御の声が言葉を紡ぐたび、空気が軽くなってゆく。

 大きく深呼吸した俺は、すぐそばで沈黙している白い翳を横目に見た。


「あ……姉御、あれ、女の人が……」


 白い翳が蠢く。

 のそのそと身を起こして立ち上がると、姉御と同じくらいの大きさになる。人間のシルエットをした白い翳は、左足と右足をゆっくり交互に動かして、音もなく十一号館の入口へと歩きだした。

 姉御の冷たい指に力が籠もる。


「気にしないのが難しいなら、この道は通らないこと。普通の人はみんな視えないから大きな影響はないけれど、視える秋津くんはぶつかってしまったら衝撃くらいはあると思うから」


 白い後ろ姿は、入り口の自動ドアの前で立ち竦んだ。

 戸惑ったように手を伸ばし、ボタンを押そうとする。……自動ドアが反応してくれなくて困っている人間のような生々しい反応に吐き気がした。彼女はまだ死ねないのだ。もう肉体が死んだということを理解できないまま、未だに死のうとしている。


 ふと、隣にいる姉御はどうなのだろう、と思った。

 師匠をして「色々視えすぎる」と言わしめる彼女の見鬼がどれほどのものか俺は知らない。けれど姉御ほど視えるのなら。


「姉御にはあの人、ちゃんと女の人に視えるんですか」


 訊くと、姉御は俺の手を握ったまま、反対側の指先を頬に当てて「んー」と首を傾げた。


「あんまり視えすぎると疲れちゃうから普段は視ないようにしているけど、そうね。ちゃんと視れば、女の人よね」

「姉御は視えすぎるんだって師匠が言ってました。……例えば亡くなった親戚とか、会ったことないんですか」


 脳裡に過ぎっていたのは叶野に会いに来たと思しき毛玉だ。

 十一号館の入口を学生が通りかかった。白衣を着た学生に反応して自動ドアが開き、白い翳もようやく建物に入ることができた。俺と姉御はその様子を見守ってからどこへともなく歩きだす。


「会いたいな、って思う相手には会えないの。そういうふうにできているのよ」

「会いたい人が、いるんですか?」


 姉御は微笑んだまま答えなかった。

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