#3-3 幽霊生成パターン
「音が、消えた」
異様なまでの静けさ。
静寂を自覚した途端にどっと冷や汗が浮かぶ。
この静けさは、おかしい。
時折緩やかに線路沿いの雑草を揺らしていた風の音も、住宅街から微かに聞こえていた生活音も、話し声も、通りを隔てた市道を走る車のエンジン音も──全てが途絶えていた。前を行く師匠と、あとに続く俺たちの足音、そして自分の内側から聞こえる呼吸の音だけがやけに響いている。
無音に耐えかねた耳が空気の震えを拾いはじめた。
地続きになった遥か遠いどこかで、低く、低く、地鳴りのような音がしている。ごおおっと唸るようなその音はどこか、八束山のあるじの顕現を髣髴とさせた。足の下に振動を感じる。……まるで何かが線路を伝って移動しているような。
「地縛霊ってとこだね」
師匠がカランと下駄を鳴らして振り返る。その音が耳に痛いほど響いた。
「死んだ場所を中心に『場』を展開するタイプ。ここから動けない代わりに、自分の領域内ではわりと好き勝手にちょっかいを出せる。だからわりと素直に怪現象が起きるっていう、肝試し連中には有難い心霊スポットだね」
素直で有難い心霊スポットってなんなの……?
思わず真顔になった俺はそのとき、カン、と鳴りはじめた警報にビクッと身構えた。何しろ今の今まで無音のなかに師匠の語りを聞いていたものだから、突如割り込んできた物音がやけにうるさく聞こえるのだ。
遮断機の赤色灯が左右交互に閃いて、辺りに赤い翳を落としている。
また電車が来ているのだ。
「ヤバ、とりあえず一旦出ましょうよ、師匠」
年季の入った遮断機が不安定に揺れながら下りてくる。先程から感じていた地鳴りのような音が徐々に近付いてくる。見ると数分前に通り過ぎたばかりの下り電車のライトが遠くで光っていた。
タタン、タタン、と線路を走る音に、ふと違和感が過ぎる。
あれ。
……終電って、さっき行ったんじゃなかったっけ。
わけもわからず師匠を見た。若干、いやかなり人の話も聞かず愉快犯的に心霊スポットを巡礼するという短所はあるが、何のかんのと言っても彼は俺たちの師匠である。彼のその不自然なほど怪異に対して動じない態度は、ある種弟子たちの目指すべき姿でもあった。
ねえ師匠、と。
声をかけようとして開いた口は、「ぉ、」と間抜けな音を洩らして固まった。
師匠の背後に、黒い翳が立ち昇ったのである。
「オギャアアアア師匠後ろぉぉ!」
「後ろ?」
師匠がきょとりと振り返る。
黒い翳は師匠の腰ほどの高さしかなかった。丸い頭に、肩、両腕と伸びているのがシルエットでわかる。
少年だ。
十年前、この踏切で母親とともに亡くなった、あの男の子。
男の子は師匠の着物の袂をきゅっと握って、誘うように首を傾げた。
師匠は静かに視線を落としている。
「……まぁ、それもそうか」と──いつも飄々として何事にも泰然とした師匠が、僅かに、自嘲するように左目を歪めた。
師匠は言っていた。この三人のなかで誰が択ばれるのか見ものだね。漠然と、やっぱり見鬼が覚醒するほどの命の危機に瀕した経験をもつ巽が、死にたいとか死にたくないとか関係なく選ばれるのだろうと思っていた。仮に巽に何かが起きたとしても、自分で言っていたように怒鳴るか殴るかして追っ払ってしまいそうな迫力があるし、なにより師匠もいるのだからきっとどうにかしてくれると───
だから。
師匠が一番『死にたい』に近いだなんて。
──そんな……莫迦な!
弾かれたように走りだし、気付けば師匠に体当たりをかましていた。師匠の薄っぺらい体はよろけたが、その場から動くことはない。見下ろせば師匠の足元に、白い、数えきれないほどの白い手が蠢き、細い足首や下駄を無造作に掴んでいた。
逃がすまい、という確乎とした意志を感じる。
「ギャアアアアナニコレ!!」
「秋津くん、きみ、声量すご。うるさ」
「ししししし師匠なにしてんすか、早く逃げますよ、ばか、ばかばか走って!!」
「しが多い。いやここまでしっかり足を掴まれちゃぁね」
「あんた足掴まれたくらいで動けなくなるタマじゃないだろおおお!? いつもの怖いもの知らずはどーしたんですか!!」
ちいさな掌だった。
まだ子どもの手だと思う。
俺が師匠を助けようとしていると察するや、その手は俺の足にも追い縋ってきた。ぺた、ぺた、白い手がスニーカーに触れ、足首へ這い上がる。
蹴散らすのも躊躇われるようなか弱い手。
「っ……!」
触れられた場所から悪寒が駆け抜け、凄まじい嫌悪感に悲鳴を上げそうになった。普段なら間違いなく一目散に逃げているか、パニックになって動けなくなっているような光景だが、今はそんな場合ではないのだ。
「だめだからな!」
とにかく師匠の薄い体にしがみつく。
知り合って日は浅い。悪い人じゃないと思うけど、取り立てて素晴らしい人格者というわけでもなさそうだ。弟子たちがホラー映画や心霊スポットにビビッてギャアギャア喚いているのを、いつもハハハと絶妙にやる気のなさそうな笑みで傍観しているような師匠だ。
だがこんなところで、見も知らない地縛霊になんてくれてやるものか。
「この人はだめだ、おまえにはやらない! 俺も巽も絶対、絶対連れて行かせない! 安田さんももちろんだめだ……!」
俺は叫んだ。師匠の着物の衿を掴み上げ、がくがく揺さぶりながら、踏切の警報にも負けない声量で叫んだ。そんな俺の横で、巽は師匠の袂を放さない黒い翳に向かって見事な飛び蹴りを披露している。
これが、すり抜けるどころかクリーンヒットした。
黒い翳はぱあっと霧散しながら地面に尻餅をつく。恐らく師匠の左眼には、小さい男の子をいじめる金髪元ヤンというどう考えてもアウトな絵面が映っているに違いない。
が、そんなことは関係ない。
巽は肩をいからせて、内側に溜め込んだ怒りを爆発させるように吠えた。
「──もう死んでるやつがいつまでも未練たらしく他人巻き込もうとしてんじゃねえっ!!」
「そーだそーだ!」
ドスの効いた怒声に怯えるように黒い翳がびくりと震える。
電車のライトが近付いてきていた。
空っぽの山吹色の車体の先頭車両に、細かく飛び散った血痕が視える。
あの子はこの電車に轢かれたのだ。
深夜、母親に手を引かれて。
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