#3-3 ねえ。痛いんだけど
腰を抜かした俺たちの荒い呼吸以外に何も聞こえなくなると、古瀬さんはそうっと人さし指を下ろし、三階へ続く階段を捜すために通路を進みはじめた。
こいつ正気か。と思ったが声を上げることはできなかった。口のなかがからからに渇いて、咄嗟に文句も出てこない。
「情けないな。この程度で腰を抜かすんじゃないよ」
「ふ、ふるせさぁん……!」
「やかましい。腰抜けはそこでびーびー泣いてろ」
急に辛辣。そんな殺生な。
しかし俺も巽も立ち上がれず、階段を上ってゆく古瀬さんの靴音に耳を澄ますことしかできなかった。
大丈夫なのか。
コツコツと特に臆することもなく古瀬さんが遠ざかっていく。そういえばあの人はこの山の中の廃墟に来るというのに和装のまま、足元は辛うじてブーツだったようだが、その状態で堂々と探索するとは全く人間離れしている。あの人ほんとは妖怪の類いなんじゃないのか。恐怖のあまり取っ散らかった思考を慌てて振り払う。
古瀬さんの足音は、階段を上りきった辺りで一旦止まった。
もし駆け下りてくるようなことがあればどうにかして逃げねば、この瀕死の巽を連れてなんとしても逃げねば。ドキドキする胸を押さえて必死に耐える。全身の毛穴から汗が噴き出している気がした。
「秋津、おまえ」
「いやだぁ……聞きたくないもう帰りたい……」
「おまえ、コレ、視えないのか……」
え?
金属バットを頼りにどうにか意識を保っているような巽の弱弱しい声に、ぎくりと動きを止める。
「み、みえ、みえないって、何が」
「ここ、相当死んでんぞ」
巽の背中をさする手が緊張で強張った。
──ここで死んでいる。
それを意識した瞬間、全身に突き刺さるような視線を感じた。
目の前の展示室から注がれる視線の数々。つい先程も目を取られた天井のあたりを凝視しそうになり、慌てて暗闇に浮かぶ巽の金髪頭や項垂れた肩の輪郭を見つめた。凝視してはいけない、目を逸らしていなければいけない、三階から染みているだけのものだから、あれは展示室からは出てこない……。
視線なんて、気のせいだ。だって何も視えない。
気のせいであってほしい。
でも、気のせいじゃないかも。
巽のこの状態を見る限り。
俺に視えていないというだけで、この二階には、古瀬さんが目を合わせないよう忠告したり巽が立っていられなかったりするほどの何かがいるのだ。
かたん、
と微かな音に肩を震わせる。通路の先からだ。月光に浮かび上がる木の陰が揺れていたから、風が吹いたのだろう。きっと、そうだ。そうでなければなんなのだ──
俺の顔色を見て力なく笑った巽は、「視えんならいい」と首を振った。
「師匠、呼びに行こう。あの人なら大丈夫だとは思うが、あまり一人にしないほうがいい。あと俺ももうむり限界吐く」
「……わかった。立てるか?」
一体、何が巽や古瀬さんには視えていて、俺には視えていないのか。問い質してはっきりさせたい気持ちも、そんな怖いことしたくない気持ちも両方せめぎ合っていたが、それより本格的に巽の顔色が悪い。肩を貸しながらよろよろと通路を進む。
コツコツと三階を歩き回る古瀬さんの足音が響いてきた。
つまり……つまりあの、歌と跫の主は、三階にいなかったのだ。
いや、いた。いたけれど、姿を消した。
きっと今もどこかで、あの跫の数に相当するだけの何かが、暗闇に身を潜めてこちらを視ている。
階段の途中で力尽きた巽を座らせ、俺はほんの数段ほど上がり、三階の床がちょっと覗けるくらいのところで足を止めた。恐る恐る、様子を窺う。
展望室は全面ガラス張りで、白い月明かりが射し込んでいた。
その中心部、ちょうど二階の展示室の椅子があった真上の辺りには、夥しい数の箪笥が積み重なって濃い影を落としている。
……箪笥。
どこからどう見ても箪笥である。
「た、箪笥?」
自分の目で見ても意味がわからない。
大小さまざまの箪笥だった。木製の本体に黒い金具が取り付けられた、昔ながらの和箪笥ばかりだ。横幅の長いもの、背の高いもの、中には階段箪笥もある。どうやって積み重ねたのか甚だ謎だが、絶妙な均衡を保って天井近くまで堆く聳え立っていた。現代アートのオブジェのひとつのような風格さえ感じる。
そしてその箪笥の群れに紛れるようにして一脚の椅子が置いてあった。
椅子自体は下の階で見かけたのと同じものだ。座面に何か置いてあるのが見える。紙のようだった。
古瀬さんはその傍に立ち止まり、懐中電灯で箪笥を照らしながら見上げている。
三階にいるのは彼ひとりだった。
解ってはいたが改めて、あの歌と跫の正体が忽然と消えたことを痛感する。胃の底がすぅっと冷えていくのを感じた。ああ、なんて場所だ。なんてところに来てしまったんだ……。
しばらく古瀬さんは興味深そうに箪笥の山を見つめていたものの、何を思ったか、突然手近な抽斗の把手に手をかけた。
「古瀬さん!?」
「上には来るなと言ったのに」
「い、言われましたっけ、そんなこと」
さっきから思っていたのだがあの人は肝が据わりすぎではないだろうか。いくら師匠とはいっても。この人に怖いものはないのか?
「古瀬さん、あの、巽が」
彼は耳を貸さず、開けていた抽斗の隣に手をかける。静かに把手を引いて、中身を懐中電灯で照らした。
「呪文、足音、祭壇、生贄、
それこそ呪文のようにそんなことをつぶやいたあと、じっと抽斗の中身を見下ろして黙りこくる。
ふと俺は、三階に漂う臭気に気付いた。
気の悪くなるような臭いだ。甘いような酸っぱいような、嗅いだことのない臭いがする。
なんの臭いか判らないが不快なのは慥かで、あまり長く嗅いでいると気分が悪くなりそうだ。鼻を摘まんで口呼吸しながら、めげずに古瀬さんを呼んだ。
「古瀬さぁん。巽が『もうむり限界吐く』って……」
「ああ……わかった。下りるよ」
古瀬さんは静かに抽斗を元に戻した。
もしかして何かが入っていたのだろうか。
……訊かないほうがいいような気がする。
ようやく階段のそばまでやってきた古瀬さんが足を止め、帯に挟んでいたスマートホンを手に持った。
「若宮くんだ」画面を見てぽつりとつぶやき階段を覗き込む。「二人とも、上がって来なさい。三階のほうがましだよ」
それから古瀬さんは、かつては八束山から臨む市街地を一望できたであろう硝子窓の近くに寄って、若宮からの着信に応答した。
「もしもし、若宮くん。どうかしたのかい」
『……、……』
ノイズがひどく、若宮の声が聞き取れない。
一旦スマホから耳を話した古瀬は、画面が通話中になっていることを確認して再び呼び掛けた。
「若宮くん」
『なぁ、……うすればい……だよ』
「何かあったの? こっちは今、きみが白装束連中に襲われた旧巖倉博物館の三階にいるんだけど」
『あいつが……んだ……部屋に……』
あいつ?
俺は古瀬さんと顔を見合わせ、そしてやっとの思いで三階に腰を下ろした巽とも首を傾げ合った。やはり音質が悪く聞き取りづらい。山の中だから電波がよくないのだろうか。
そう思った瞬間、古瀬さんのスマホから大音量が飛び出す。
『あいつだよ!! あの日やつらに捕まったはずの!!』
──ざわっ、
空気がざわめいた。
俺には、音割れを起こした若宮の大声を咎めているように感じられた。思わず巽の背中にしがみつく。だいぶ鬱陶しそうな顔をされたが構わない、怖いので。
古瀬さんはやかましそうに顔を歪めてスマホを耳許から離した。
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