#3-4 ねえ。痛いんだけど

 スピーカーにするまでもなく、若宮の叫び声が洩れ聞こえる。『ああああ』『今もいる、そこでオレを見てる』『どうにかしてくれ、助けてくれよ』──と助けを求める声を聞き流しながらスマホを口元に持ってきた古瀬さんは、気味が悪いほどけろりとしていた。


「そのあいつっていうのは右耳にピアスをしてる彼のことかな。シルバーの、シンプルなフープピアス」

『なんで……知って……』

「うんまあ、それらしい耳をさっき見かけたからさ」


 えっ、なにそれ、聞いてませんけど。

 古瀬さんの表情があまりにも冷淡なものだから、却って冗談なんだかハッタリなんだか真実なんだか解りにくい。耳を見かけたってどういうことだ?


あなたのところに現れているということは、解るだろ、残念ながら生きちゃいないよ。一応訊くけど、あなたが殺したんじゃないよね?」

『オレじゃない!』


 若宮が絶叫した。びりびりと音が割れる。


『オレは殺しちゃいねぇよ!!』


「なるほど」


 若宮の狂乱をものともせず、古瀬さんは恬淡と訊ねた。


「じゃあ、あなたはを殺したんだね」


 スマホの向こうで激しい音がした。

 本体を床に落としたような衝撃音だ。若宮の狼狽したような声。

 それから、


『ねえ』


 知らない女の声がやけに鮮明に響く。

 吐き捨てるような呼びかけはひどく不機嫌そうで、俺は一瞬、若宮の家族が大声で電話する彼に文句を言いに来たのかもしれないと考えた。しかしどうも『なんだよおまえ』と叫ぶ若宮の様子からして違うようだ。


『おまえ、まさか、嘘だ、だって』


『ねえ。痛いんだけど』


 若宮の絶叫とともに通話は切れた。

 無音になったスマホを平然と懐に収めた古瀬さんは、恐怖で抱き合う俺と巽の横を抜けて階段を下りていく。


「い、い、い、いまの、今の、女の人の声……」

「きみたちがオオサンショウウオだと言ってペット気分で引っ掛けていた、あの黒いのの声だけど」

「……!?」


 クラッときた。

 思わず膝から力が抜けそうになったが、それより置いて行かれるほうが嫌なので必死に立ち上がる。

 つまり八束隧道で一度叶野たちが轢いたのは、そして叶野の顔面に覆いかぶさっていたのは、そのあと俺の五歩後ろをついてきていたのは、最終的に若宮を見つけて彼を苦しめていたのは、不機嫌に痛がる人間の女性の──。


 改めて言葉にすると眩暈がしそうだ。古瀬さんには最初から、何もかも解っていたのか。


 唐突に吹き荒れ始めた夜の風が木々を揺らしていた。

 一階の出入り口から外に出た途端、頬を撫でる生ぬるい風の感触や、足の裏に伝わる地面の気味の悪さに気付く。

 土を隔てた大地の奥深くで、何かとんでもなく悍ましいものが蠕動しているのだ。


 山の気配が蠢いている。

 腰の高さまで伸びた草を掻き分けながら展望台の駐車場を目指す耳に、ざわめく風の音に紛れて微かな歌声が届いた。こくりと喉を鳴らして振り返ると、月明かりに浮かぶ廃墟。風に乗って響く歌声は、先程聞いたものと同じようなリズムをしている。

 もう驚かない。

 あの建物は場所なのだ。


「八束山というのは特に力の強い場所でね。ゆえに八束隧道は心霊スポット化したといっていい。恐らくあの旧巖倉博物館も」


 獣道を抜けて、三人はもとの展望台に戻ってきた。

 駐車場には相変わらず古瀬さんが運転してきた一台のみ、おとなしく帰りを待っている。


「『彼女』はこの山で死んで山の一部になった。『彼女』は自分を殺した彼に対して怒っている。山のあるじは怒りに呼応して、この土地を穢した彼をお迎えに行ったんだよ」

「山のあるじ?」

「神さまと言ったほうが解りやすいのかな」


「神さま……」スケールのでかい話だ。「って、いるんですか」


「いるんじゃないの。知らないけど」


 知らないんかいっ。


「あれらは自分で神を名乗るわけじゃない。まず存在ありき。それらに人間、霊、神、妖怪といちいち名前をつけてラベリングしたのは人間で、確実に名前の方が後発だ。正確なことを言えば、この山には大いなる存在がおり、後世このあたりに住む人間は『彼』に神という性質を与えた──といったところかな」


 古瀬さんは展望台の手摺に凭れて暗い山肌を見下ろした。

 街灯もない真っ暗な山道のなかに、トンネルの明かりが見えている。ちょうどその光が届くか届かないかのところに人影がひとつあった。目を凝らしてみると若宮だった。背中から頭にかけて真っ黒だから間違いない。


 若宮はトンネルの出入り口付近にへたり込んでいた。腰が抜けて立てない様子で、それでも何かから逃げるように後退っている。

 あの人、さっきまで、自宅で俺たちと電話していたはずなのに。


 本当に『山のあるじのお迎え』とやらがあったのか。

 人間ひとりを一瞬で移動させるなんて、そんなの。


「それじゃあ、まるで神隠しだ……」


 こぽりと黒い翳が立ち昇った。

 地面から湧いて出た翳はざわざわと蠢き、蜷局を巻いて、ひとところに集まってゆく。背後を振り仰ぐと、八束山の頂上近くで月光を背に君臨する黒い翳があった。

 最初それはただの翳であった。


「日本の神さまの在り方は大きく分けて二つ。最初から神として生まれるものと、最初は別物であるが何かのきっかけで神として崇められるようになるもの。前者は神話に登場するような神々のことで、後者は精霊崇拝における岩、神木、人間、鬼などの類いだ。八束山には古来よりヤツカ様という神さまがいてね。元々は土蜘蛛という大妖怪で、人間にとっては悪に近い性質を帯びている」


 存在は認知によって形をつくる。

 古瀬さんの語りのなかでヤツカ様、土蜘蛛、という単語が結びつき、俺の視界に像を結んだ。


「さぁ。おいでなすった」と古瀬さんがきわめて愉快そうに口の端を釣り上げたときには、それは山頂に悠々と腰を下ろす、巨大な蜘蛛の姿をしていた。


 八本の脚をゆっくりと動かしたヤツカ様は、そのうちの一本を持ち上げ、振り下ろす。


「わっ……」


 ごうっと強風が吹き荒れた。


 振り下ろされた脚は、八束隧道の入口に腰を抜かす若宮を踏み潰す。

 黒い翳のつぶがざあざあと滝のような音を立てて若宮を呑み込んだ。風の音の隙間から若宮の悲鳴が洩れ聞こえる。

 強風に足を抄われて、慌てて展望台の手摺に掴まる。いまだ顔色が悪く地面にしゃがんでいた巽はと捜すと、古瀬さんが襟首を引っ掴んでいた。その扱いもどうかと思うが。



 やがて。


 ぴたりと風の音がやみ、痛いほどの静寂のなか黒い翳は、平地に広がる水のような存在の薄さで霧散してゆく。


 ヤツカ様は顕現したときと同じように静かに、静かに黒い翳を操り──


 月光に照らされる山肌へ、木々の隙間へ、舗装された道路のアスファルトの隙間へと、その身を潜らせた。


 あとには蹲る若宮だけが残された。

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