#3-2 ねえ。痛いんだけど
一階展示室の入口で待っていた巽の横に並び、ほとんど完全な闇に包まれている内部を照らす。
内部には、博物館時代に設置されていたであろう椅子やベンチが無造作に転がっている以外、当時の名残を思わせるものはない。展示品はしっかり片付けられたようだ。
しかし床には比較的新しいお菓子のゴミやペットボトルの残骸が転がっていて、いまだに何者かが出入りしていると窺える。
外壁と同じく内部にもラッカースプレーで落書きが施されていた。何色ものスプレーを駆使したグラフィティから、『●●連合参上』といういかにもなご署名まで実に様々だ。
「けっこう色んな人たちの溜まり場になってるんだなぁ」
「そういうとこは霊的には無害な場合が多いって師匠が言ってたけど、どうだろうな」
「ああ……なんか解るかも。慥かに、本当にやばいところは、逆に無意識で人間のほうが避けてる」
「へえ。そんなもんか?」
「俺は積極的に避けるタイプだからあんまり遭遇しないけど、たまに町中や電車のなかで死ぬほど怖いのがうろついてることもあって、そういうのがいる場所は不思議とみんな避けて通るな。……どんな人混みでもそうだ」
裏を返せば、溜まり場になった痕跡のあるこの廃墟は、人が居着くことのできる廃墟ということだ。
「そうか。だからここ、思ったより怖くないのかも」
少なくとも想像していたほど霊的な何かがうじゃうじゃしているといったことはない。
暗く、視界が悪いから不気味で怖いけれど、今のところ妙な気配はないし何も視えないのだ。気付いてみると呆気ないもので、俺の肩からは力が抜けた。
一通り展示室の内部を見て回ってから通路に戻る。
そろそろ一周するかといったところで上階へ続く階段が現れた。その傍にしゃんと立つ古瀬さんの後ろ姿を見つけてほっと一息つく。
「師匠、置いていかんでください」
巽が文句を零すと、彼はさっと右手を挙げて俺たちの動きを制した。
「シィ───……静かに」
吐息を洩らすような忠告を受けて、そっと息を殺す。
古瀬さんはじぃっと階段の上を向いたまま動かない。
やがて耳が静寂に慣れてきた頃、聴覚が、それを捉えた。
……ぼそぼそぼそ……。
こそこそ……。
話し声がしている。
二階……いや、声の響き方や大きさからして、三階。
古瀬さんの左眼がついっと俺たちを向いた。聴こえたか、という視線の問いにこくこく肯く。
「……誰かいるんですか?」
「最初に外から確認したとき、どこにも明かりは見えなかったんだけどね」
ぴたり、と話し声が止まった。
まるで向こうにもこっちの会話が聞こえたかのようなタイミングだ。聞こえるはずもない小声で囁きを交わしたはずだったのに。
どきりとして両手で口を塞ぐ俺の横で、巽が金属バットを握りしめる。物騒だが頼もしい。
一階と三階で、互いに睨み合うような沈黙が続いた。
緊張で呼吸が浅くなる。
人間の出入りの痕跡があるのだから、誰かがいたっておかしくない。ただ脳裡を過ぎったのは若宮の証言だった。白装束を着た連中と出くわし、襲われ、展望台の駐車場まで追って来られたと。今の話し声がその白装束の連中だったら───
しばらく階段の先を睨んでいた古瀬さんは、おもむろに一歩踏み出した。
「師匠……!」
「行ってみないことにはなんとも言えないしね。人間だったら挨拶して帰れば済むことだし」
「いやいやいや明らかに危ないだろ誰かいますって師匠、おい!」
「えええぇぇぇちょっと待ってぇぇぇ」
ずんずん階段を上りはじめた古瀬さん、嫌がりつつそのあとを追う巽、一人取り残されたくないので泣く泣くついていく俺の順で、一行は二階へと辿りついた。
円を描く通路を進み、二階展示室の入口に立つと、古瀬さんは懐中電灯の頼りない明かりで室内を照らす。
そこには、何もなかった。
何もないというのは正確には違うのだけど、落書きやゴミが散乱していた一階と較べると空っぽに近い状態だったのだ。古瀬さんが少しずつ懐中電灯の向きを変えて照らしていく。年月に従って自然に劣化した壁紙、厚く埃の溜まった床。人の出入りの気配は一切ない。一階にはあんなにも人間の痕跡が残っていたのに、二階には誰も来ていないなんてそんなことがあるだろうか。
部屋の中心には、経営当時から休息用に置かれていたであろう椅子が、ひとつ。
ちょうどその頭上に当たる天井は黒く変色している。だいたい二メートル四方ほどの、焦げ跡……というよりは、何か───。
何か───?
吸い寄せられるようにそちらを見上げて、視線が逸らせなくなった。
……あれは、なんだろう。
よくない感じがする。
じりじりと、眼球の端が黒く蝕まれていくような、
「秋津くん」
突然、古瀬さんの右手が視界を覆った。
かくんと膝から力が抜けて、埃まみれの床にへたり込む。一瞬、自分の体が自分以外のものに操られたかのようだった。
意にそぐわず視線を奪われたのを、古瀬さんが取り戻してくれた、ような。
「凝視してはいけない。あれはとてもよくないモノだ」
「あれ……?」
「はっきり視えているわけではないんだね。そのまま目を逸らしていなさい。大丈夫、展示室の外には出てこない。三階から染みているだけのはずだから」
ざわっ……と全身の皮膚が粟立った。
あれは、ただの黒い変色ではないのだ。展示室の奥から漂ってきた生ぬるい風が顔面を撫でる。展示室の外には出てこない。裏を返せばあそこには、あの天井には、古瀬さんがよくないと言い切る何かがある。
ゴトン
天井付近から音がした。
古瀬さんが顎を上げる。
跫だ。複数人いる。
加えて先程よりも少し大きな声が聞こえた。会話ではなく、低く、歌うような──一定のリズムのある話し声。
……読経のような……。
俺はもうそろそろ泣きそうだった。大学生にもなって情けないとは思うが怖いものは怖い。古瀬さんもう戻りましょう今すぐ帰りましょうと訴えたいのは山々だったが、下手に声を上げて三階の人びとに気付かれてはまずいということも解っていた。古瀬さんがずっと、口元に人さし指を当てて「黙れ」のポーズをしていたからだ。
ばらばらに三階を移動していた跫がやがて規律を得た。
円を描いた相当数の人間が、読経に合わせてごん、ごん、と行進している。徐々に跫が増え、声も大きくなってきた。何を言っているのかは聞き取れないが、読経というよりもやはり歌に近いような旋律がある。
いやいやいや、待て待て待て。
俺たちはこの建物に入る前、展望台の駐車場が無人なことをこの目で見ているし、外から外観を見上げたときに内部が真っ暗なのも確認している。こんな、天井を揺らすほどの跫を立てる大人数が、いたはずはないのだ。一体なんなんだこれは。若宮が見たという白装束の連中なのか、それとも彼岸のものの仕業なのか?
ぐ、と隣に立っていた巽が呻いた。口元を掌で覆い、嘔吐きながら体をくの字に折り曲げる。バットを支えにしながら床に膝をついたので、具合の悪そうな背中をさすった。
読経が止み、物音が掻き消える。
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