#2-2 心霊相談承り〼
足跡のごとく残されていたあのねばついた液体の痕跡もない。ということは、かなり前からもういないということか。
「とりあえず店まで戻ってみよう!」
忘れ物をしたと店員に説明して、貸し切っていた大広間にも行ってみた。いなかった。
迷子になっていやしないかと念のため店周辺を歩いてみたが、黒いのはおろか足跡代わりの液体もない。
黒いのは至極あっさりと、姿を消してしまったのである。
「き……消えちゃったのかな」
「どうだろうな。師匠も言ってたが、もともと力のあるものでもなかったし」
言いながら巽は携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけはじめた。相手が応答してすぐ「師匠」と口にしたので、相手は古瀬さんであるらしい。事情を説明したあと、巽は音量をめいっぱい上げて、俺にも聞こえるようにしてくれた。
『事情は聞いたよ。いついなくなったかは不明なんだね?』
「はい。帰り道に巽が気付くまで……」
『ペットじゃあないんだからもうちょっと警戒しておきなさいよ。まあ大方、姿かたちを保つこともできなくなって消え去ったか、そうでなければ歓迎会の現場に捜していた相手がいたのだろうね』
「あそこに……」
集まった新入生は三十人ほどいた。上回生は二から四回生を含めて四十人弱。
広めの宴会場を借りて行われた飲み会のどこかに、あの黒いのが捜していた相手がいる。
電話の向こうで、ふむ、と一呼吸置いた古瀬さんは「少し待ってみよう」と切り出した。
『力尽きたのでなければ、縁を辿って来るだろうさ』
◇
呼び出しを受けたのはそれから数日後のことだった。
幸丸大学から徒歩十分、閑静な住宅街の中に座す鬱蒼とした西洋館。巽のあとに続いてアイアンワークの門を潜ろうとして、足元に一枚板の看板が立てかけてあることに気がついた。
さらりとした筆書きで、
『心霊相談承り〼』
と書いてある。
……何度見ても『心霊相談』とある。
「古瀬さんって、祓い屋さんとか拝み屋さんとかそういう人なわけ……?」
「いやあの人のは単なる趣味だ。こういう看板を出しておいて、色んな現象や噂話や呪いのアイテムを蒐集してる」
「そういや巽ってあの人のこと師匠って呼ぶけど」
「俺は視えるようになって日が浅いから教わってるだけだ」
「……いつから?」
「高三の夏。事故って死にかけて目ぇ覚ましたら視えるようになってた。一回心停止したっつぅから、半分死んでんのかもしれねぇな」
「けっこう最近なんだな。途中から視えるようになることもあるんだ」
「おまえは?」
「俺は、ずっと。子どもの頃からだよ」
「それもそれで大変そうだ」
巽は前庭に敷かれた石畳の道をすたこら歩いていった。
蛇行した石畳の小径は途中でなぜか池につながる。金色の鯉と小さな亀、それから睡蓮の葉が浮かんでいた。絶えず水の流れる音がどこかから聞こえてきている。水面から五つほど顔を出す飛び石を渡った先には、左右対称のつくりをした白壁の洋館が現れた。
古瀬さんはこの家に一人で住んでいるのだろうか。かなり手入れに苦労しそうだ。
巽は手慣れた様子で重厚な玄関扉を開け放った。
玄関ホールは吹き抜けになっている。俺たちは靴を端に揃えて、並んでいるスリッパを借りた。それから以前叶野とともに通されたのと同じ、玄関ホールの左手側にある扉を開ける。
応接間のソファに腰掛けていた古瀬さんが、こちらを振り返った。
「やあ、来たね」
そこにはオオサンショウウオがいた。
数日前から姿が視えなくなっていた、あの黒いのである。
以前の叶野と同じ位置に腰掛けた若い男に、以前の叶野と同じように覆いかぶさっている。明らかに異なるのは、黒いのを背負ってもピンピンしていた叶野に対して、目の前の男はがくりと項垂れて具合が悪そうな点だった。
前屈みになって両膝を掴み項垂れる男の、背中から顔面にかけてべったりと、真っ黒いぬめぬめした物体が覆っている。
その正面に座す古瀬さんは、薄浅葱の色無地に黒い角帯を締めた姿でうっそりと俺たちを見やった。
「こちらへ座って」と指差された古瀬さんの隣に巽が、その横に俺が腰を下ろす。古瀬さんと男の前には空になった湯呑みがあった。
「それじゃあ、話を伺います。この二人は助手のようなものですからお気になさらず」
「はぁ……。経営学部三回生の、若宮琳太郎と申します。あの、さっきも言ったけどまじでこのことは内密に……」
「大丈夫。基本的に秘密は守りますよ」
かつての叶野のように顔面をべったり覆われて人相もわからなかったのだが、声を聞いて思い出した。確か新歓コンパのときに勢いよく一気飲みしていたグループの派手でちゃらちゃらした先輩だ。怖くて近寄らないようにしていたから喋ってはいない。
……この男が、黒いのの捜していた相手なのか。
「実は、オレ、黒い幽霊に憑りつかれているんです」
それは……視れば判る。
あなたはしっかりばっちり憑りつかれている。
俺はそう思ったし、恐らく横の二人も同じようなことを内心つっこんでいただろうが、三人とも口を閉ざして若宮の話を聞いた。
「何日か前から、肩とか首がすっげぇ重くて……」
でしょうね。
「家で一人になったりすると視界の端に黒い影がいたり、鏡を見たら黒い幽霊が映っていたりするんです」
あ、それは普通に怖い。
叶野や俺がピンピンしていたことを思えば、黒いのが本気でこの若宮をどうにかしようとしているというのが伝わってくる。段違いに行動がアクティブだ。殺意が高い。
「この間なんて、カバンの中身が血まみれになってて」
……血?
そっと顔を上げると、若宮に覆いかぶさる黒いのからは、相変わらず粘性の黒い液体がぼとぼとと垂れている。
「驚いて悲鳴を上げたけどオレ以外誰にも見えてねぇし、ハッてしてもう一回見たら元通りになってて。でもそれからも何回も、部屋の床に血だまりができてたり、天井から血が垂れてきたりしてて」
慥かに──血痕みたいでいやだな、とは思っていた。
だが俺の目にはいつだってただの黒いねばついた液体として視えていた。まさか、これが血だとしたら、この黒いのの正体は一体……。
「黒い影に、血痕。なるほどね」
古瀬さんの横顔を見上げると、彼は意味ありげに左目を歪めて俺に笑いかけた。
「憑りつかれるような心当たりはありますか? この間もあったんですよ、春休み中に八束山を越えたときトンネル付近で幽霊を視たとか、ちょっと休み中に羽目を外して肝試しした先で幽霊を拾っちゃった、とか」
若宮の肩は、あからさまに震えた。
「じ、実は、春休み中に肝試しを……」
黒いのの心霊現象で疲弊しきって口が重い若宮の説明を要約すると、こういうことだった。
春休み中、彼は経営学部のメンバー三人で肝試しをした。場所は八束山にある廃墟で、廃墟内に幽霊が出るとか、宗教団体が出入りしていて妙な儀式をしているとか、色々と噂のある心霊スポットだ。
若宮と友人の乗る車一台、それともう一人が運転する車の計二台を八束山の展望台に駐車し、彼らは廃墟を目指した。展望台から廃墟までは獣道でつながっている。若宮ら三人は壊れて開けっ放しのドアから中に入り、地下一階地上三階建ての建物をぐるりと見て回った。
そこで、白装束を着た謎の団体に出くわしたのだという。
若宮たちは驚いて逃げた。
白装束の連中は若宮たちに気付き、目撃者を処分せんとばかりに追ってきた。廃墟を出て、転げるように獣道を戻り、展望台の車に飛び乗った。友人の一人とはぐれたことに気付いたのはエンジンをかけたときだったが、すでに白装束の連中が車に飛びつこうとしていたので構わず発進したという。
「そしてそれ以降、その友人が行方不明になっていると……」
古瀬さんの声音はかなりストレートに興味なさげだった。
話を聞いた俺も、それは明らかに警察案件ではなかろうかと訝しく思った。しかもこれでは黒いのが若宮にひっついている理由が解らない。
「警察には行ったのかい」
「あ、あのときは、怖くてパニックになって……」
「話を聞く限りじゃその白装束連中は生きた人間だよ。そいつらに襲われて、行方不明者も出ているというのなら、それはもう警察の管轄だ。きみは山を下りたその足で交番に駆け込むべきだった。今からでも遅くないから相談しに行ったほうがいい」
「だめだ! 警察はだめだ」
若宮が激しく首を振ると、黒い液体がぼとぼと飛び散った。
液体自体はほどなくしてすぅっと透明になるのだが、真正面にいてけっこう浴びた古瀬さんは不機嫌そうに頬を拭った。
「警察沙汰に巻き込まれたなんて、さ、サークルに迷惑がかかる……」
サークル。
すでに一人の安否が不明であるというのに、この男は人命よりもサークルに響くことを恐れているのか。絶句して顔を見合わせた俺と巽の横で、古瀬さんが一度ゆっくりと目を閉じる。
小さく嘆息して再び瞼を開けたとき、彼の眸に慈悲の色はなかった。
「そう、じゃあ、行ってみるしかないね。八束山の廃墟とやらに」
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