#2-1 心霊相談承り〼
どうやら俺の頭がおかしいわけではなかったらしい。
他の人には視えない何かが自分には視えているのだと理解して以降は、これは本当に存在しているものなのか、もしかして自分の頭がおかしいだけなのではないかと、ずっと頭の片隅で考えていた。人よりうるさい自分の世界をこういうものだと諦めると同時に、常に自分の正気を疑って生きてきた。
しかし巽や古瀬さんにも、同じものが視えているようなのだ。
安堵した。自分以外にも視える人がいた。自分だけがおかしいわけではないのだ。
叶野の顔面から真っ黒いオオサンショウウオが引っぺがされ、そのリバー・フェニックス似のご尊顔を拝めるようになってからすでに三日が経つ。
その代わり、黒いのは、俺の五歩背後に控えていた。
古瀬義人曰く、
「こういう弱いものは形を留めているだけでも一苦労なんだよ。人間か何かに引っ掛かっていないと途端に霧散してしまう。可哀想だと思うなら叶野くんの代わりにきみが引っ掛けて、この子の捜しものに付き合ってあげなさい」
という。
正直、誰が好き好んでこんなよくわからないものを引っ掛けるものか、というか引っ掛けるとか言うが要は憑りつかせている状態なんだろうがとか、色々言いたいことはあったが時すでに遅かった。遠慮しているのかなんなのか、叶野のように顔面に覆いかぶさってこないだけまだマシと思うことにする。
黒いのの輪郭は、日に日に頼りなくなってきている。
この三日間、黒いのは少し後ろからのたのたとついてくるだけで、特に害はなかった。害を及ぼすほどの力もすでにないというのは本当のようだ。形を保てず、消えてなくなる日も近いのかもしれない。この子の捜しものはいまだ見つからず、何を捜しているのかも不明だ。
自宅アパートを出て、歩いて大学へ向かった。
この春から一人暮らしを始めたのは築四年ほどの二階建てアパートで、バス・トイレ別という譲れないこだわりを満たしており、かつ霊的気配が、少なくとも俺には感じられない優良物件である。物件によっては下見の際、扉を開ける前から「ここはむりだナァ」と感じるようなところもあったのだ。まさか自分で人間でないもの……『彼岸のもの』を連れて帰る日がくるなんてと初日はちょっとへこんだが、まあ要は慣れだ。黒いのはあまり怖くないし。
アパートと大学は徒歩二十分ほどの距離にある。普段は自転車通学だ。
ただなんとなく、自転車で走ってしまったら黒いのがついて来られないのではないかと心配で、最近は少し早起きして歩いて大学に行くのが習慣になっていた。
巽に話したら「莫迦じゃねーの」と言われた。うるさいやい。
五歩後ろに黒いのをひっつけたまま千鳥と一緒に午前の講義を受け終え、いつもの一階の大講義室に向かう。
適当な席に座って、通学中にコンビニで買ってきた焼きそばパンの袋を開けると、千鳥がジト目で睨んできた。
「まぁたパンかよ。野菜ちゃんと食ってんのか?」
「う。いやもうちょっと色々慣れるまでは手抜きしたっていいじゃんか……」
「それ一か月前にも聞いた」
霊的気配のクリーンな部屋で憧れていた一人暮らしを開始したはいいものの、これが想定以上に困難の連続で、自炊生活は早々に挫折している。節約のため弁当でも作ろうかと弁当箱は購入していたが一日で諦めた。弁当箱はキッチン棚の奥底に仕舞い込まれ、近所のコンビニの常連と化している。
隣で弁当箱の蓋を開けた千鳥がおもむろに口を開いた。
「そういやぁ増田くんに聞いたんやけどさ」
「誰だよ増田くん」
ちなみに千鳥の弁当は本人の手作りである。
色鮮やかなおにぎりが三つ、からあげにウィンナーにつやつやの卵焼き、れんこんの金平にポテトサラダにカイワレ大根のハム巻き、いつ見ても美しい。惚れ惚れする。こんなの朝から自分で用意できるなんてえらい。すごくえらい。俺は千鳥をとても尊敬している。
この相方、主婦力がカンストしているスーパー男子大学生なのだ。
中学校教師として働く忙しい両親に代わって家事を一手に引き受け、さらには病弱な妹の面倒も見る──圧倒的お兄ちゃん。弁当計画が一日坊主だったことを話すと「綾のぶんも作ろうか。一個も二個も変わんねぇよ」と彼女みたいなことを言われたがさすがに辞退したという過去がある。
ご自慢の黄色いつやつや卵焼きを口に放り込みながら、千鳥はニヤリと笑った。
「巽って噂によると高校時代は地元をシメる番長的存在で、一人で五十人の不良を相手に喧嘩して勝ったんだと」
番長って現存してんのかよ。というか、
「このご時世に五十人も不良がいてたまるかよ……」
「盗んだバイクで走り出し、夜中に校舎の窓を割って回ったとか」
「窃盗に器物損壊じゃん。どこの尾崎豊?」
明らかに数十年前の不良像だ。ハードワックスでがちがちに固めたリーゼントとか、短ランとか長ランとか特攻服とかそのレベル。いくらなんでも大袈裟である。
「そんな噂どこから回ってくるんだよ。増田くん何者なの」
「増田くんがサークルの歓迎会で知り合った経済か経営かの一回生が、巽と同じ高校出身なんだってさ」
「へぇぇ……」
噂をすれば影。
遠目にも目立つ金髪を揺らしながら近付いてきた巽は、俺の前の席に腰掛けた。視線はちらりと斜め後ろの真っ黒いサンショウウオを確認しつつ、「おつかれ」と声をかける千鳥に返事をしている。
最近は千鳥と叶野に加えて、巽も一緒に四人で昼食をとるのがお決まりとなりつつあるのだった。
「巽の今日の昼飯なに?」
「マヨから弁当」
文芸学部棟のピロティーでは、昼休みの時間に生協の弁当が販売される。安くてうまくて量もそれなりということで当然混雑するため、人混みが好きでない俺はまだ挑戦したことがない。
「巽も一人暮らしだっけ」
「ああ。みかげ商店街のほう」
「へー。今度突撃させて。地元どこ?」
「来るのはいいけど古りぃし狭いぞ。地元は香川。秋津は?」
「俺は弥土駅のほう。地元は京都だけど」
「あんま京都っぽくねえな」
「よく言われるー。親の転勤で中一のときに引っ越してきたんだよ。その前は神奈川だった」
俺たちがだらだらと喋りながら食事する様子を、千鳥はまるで保護者のような顔して眺めていた。いつものことだがほぼオカンである。
メロンパンの袋をばりっと開けたところで、スマホを見た千鳥があっと声を上げた。
「どうした?」
「悪い、帰るわ。真波が熱出したって。午後の授業、ノートとプリントお願い」
「了解。気をつけてなー」
「あ、サークルの新歓! 綾ひとりで大丈夫か!?」
今晩は入学式直後の勧誘期間にお誘いを受けたサークルの歓迎会があり、千鳥と揃って出席することになっていたのだ。ひとりで大丈夫かという心配がやっぱりオカンである。一体なにを心配されているのだか、大学生にもなって。
「じゃあ巽、暇なら一緒に行こ」
「なんのサークルだ?」
「総合スポーツサークルとかいってたけど、入部するかどうかは別としてとりあえずタダ飯が食えるよ」
「行く」
「巽がおるなら安心やな。綾のことは任せたぞ!」
「おう」
納得いかない。俺は幼児か?
それから午後の講義を受けたあと、アルバイトに向かうハンサム叶野を送り出し、巽とともに時間を潰してから新入生歓迎会の集合場所へ向かった。
大学の正門から会場となる店に移動し、飲み物が揃ってから乾杯となる。
そして即座に始まったサークル上回生たちの一気飲みの応酬に、俺は戦慄した。
正直に言うとドン引きした。長身の巽の陰に隠れてぷるぷる震えた。飲酒強要、未成年飲酒、急性アルコール中毒、救急搬送……スキャンダラスな単語を脳内で唱えて怯えまくる。千鳥はこれを心配していたのだ。大学生こわい。
とはいえ、さすがに未成年の一回生に酒が強要されることはなかった。
ノリノリで歌いながら(コールというらしい)一気飲みしているやばい上回生たちは放置し、普通に楽しくお食事とお話をしてくれる先輩もいた。俺と巽は近くに座ってくれた人懐っこい女の先輩と会話しながら、ちびちびコーラを飲んで二時間を過ごした。
歓迎会に参加しておいて何だが、部活動やサークルに所属することはあまり考えていない。
中学時代は帰宅部のエース。高校時代はバスケ部だったが創部に当たって名前を貸しただけという状態だった。同じ目標に向かって頑張る仲間というものは、ハマれば得難く尊いものなのだろうが、自分がその輪に入ることは想像できない。視えている世界が違う俺は、他人と歩幅を合わせるのにも苦労する。
このまま当たり障りなく、人を傷付けることも極力少なく。
できれば穏やかに大学生活を送りたい、と思う。
そんな具合で二次会に向かう一部の人びとを見送り、巽とともに帰路についたのだが──
「おい、アレがおらん」
「えっ、うそ!」
巽の『アレ』とは黒いののことに決まっている。びっくりしながら背後を振り返るも、確かに歓迎会の直前まではきっちり五歩後ろにいたはずの真っ黒いオオサンショウウオがいなくなっていた。
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