#1-4 顔の見えない友人
「そうかい、よかったねぇ」
しれっと答える古瀬さんの傍らには、叶野の肩から降りて行き場を失った真っ黒いオオサンショウウオが佇んでいる。
「ぉ、ぉ」と繰り返しているそいつは、どこか困っているように見えなくもない。
「ま、まさかまさか、今のは除霊ってやつちゃいますか。おいくら万円!?」
「そんなことしちゃいないよ。それより、アルバイトの時間は大丈夫かい」
「んぎゃっ!」
尻尾を踏まれた猫のような声を上げて叶野が立ち上がった。「やべえ! 帰ります! ホンマありがとうございました!」とブンブン頭を下げながら辞去していく叶野に続いて、流れで退出しようとした俺は、慌てた足元に何かを引っ掛けて盛大に転んだ。
「秋津ぅぅどないした!?」
叶野が騒いでいる。幸い毛足の長い絨毯なので痛くはないが、目と鼻の先に黒いのがいてヒュッとなった。近い近い近い!
「秋津は置いてけ。ちょい話がある」
「そっか! 悪い秋津、巽、また明日! 古瀬さんありがとうございました! お邪魔しましたァ!」
ばたばたと応接間を後にした叶野の足音が、玄関の扉の閉まる音とともに聞こえなくなる。
体を起こして振り返ると、ちょうど俺が足を縺れさせたところに巽のリュックが転がっていた。なるほどこれを投げて寄越したわけね。呼び止めるにしたってやり方が雑すぎやしないか。
──ぉ……ぉ……?
黒いのが、ゆらり、と動いた。
ぺたぺたと床を這いまわり、ゆっくりと立ち上がって二足歩行になってみたり、べしゃりとまた崩れ落ちてみたりと、なにやらシルエットが安定しない。心なしか弱っているように見える。果ては床にくたりと倒れ込み、そのまま動かなくなってしまった。
「あのう、これ、どうするんですか……?」
巽と古瀬さんもまたそちらを見下ろしている。
改めて確認するまでもなく、古瀬さんも視える人だということは明らかだった。
「どうするかという問いには、そうだねぇ、『放っておく』と答える他ないね。あまり力あるものではないし、もし死力を振り絞ってまた別の男にひっついたとしても害はないだろう。害を及ぼせるほどの力も残ってはいないから。しばらくすれば霧散するんじゃあないかな」
「別の男? どうして叶野だったんですか? これには何か目的があるんですか?」
「どうして彼だったのかという問いには意味がない。あちらの行動原理にはこちらの理屈が通用しないから。やつらは人を択ばない、択ばれる人がいるだけなんだよ」
革張りのソファで脚を組む和装の青年の口からは、これまで誰にも提示されなかったものが次々と流れ出た。
「これは、こいつらは……」
この人は答えをくれる。
物心ついた頃からずっと誰かに教えてほしくて、でも誰も教えてくれなかった答えを。
そのことに対する安堵と、さらに上回る理由のない不安感に、知らず指先が震えていた。
「一体、なんなんですか」
古瀬義人の回答は端的だった。
「我々は『彼岸のもの』と呼んでいる」
ぺたり。
床で倒れて動かなくなっていた真っ黒いオオサンショウウオが、前脚のようなものを伸ばした。
体から滲み出るねばついた液体が絨毯に垂れ、透明になり、また垂れて、消える。
──ぃ……ぁ……ぃ。
か細い呻き声を上げる黒いのが哀れで、見ていられなかった。
怖いものは苦手だ。
昔からこういうものが視えるといったって、平気になるわけじゃない。昆虫を何百匹と見ようが慣れない人は慣れないのと同じだ。そこらへんに犬猫がお散歩していたって苦手な人は苦手なのと同じ。やつらはそこにいるのが当たり前で、だけど俺の予測もつかないような行動をするし、たまに追いかけてくるやつもいるから、普通に怖い。
しかしこの黒いの、動作はゆっくりだし大きい声を出したりもしないし誰かに危害を加える気配もない。そのうえ力尽きたように床に伏せられては、なんだか可哀想になってくるのだった。
古瀬さんは薄氷のような微笑を浮かべる。
「世界には層がある。我々人間が自然界の物理法則に従って生きる層のほか、何十、何百、何千もの層が重なって全ての世界ができている。人間にとって一番身近な層を『此岸』、それ以外の層はまとめて『彼岸』……そして彼岸に棲む幽霊だとか妖怪だとか呼ばれるものから神霊に至るまでの八百万を我々は『彼岸のもの』と呼称しています。ま、世界は高層マンションみたいなものだと思ってね」
此岸が一階とすると、二階より上は全て彼岸である。最上階はn階だ。
そして大抵の場合、一階に住んでいるものは一階の住民同士しか知覚できない。人間はそういう生き物として進化してきているからだ。
ただし二階以上に住むものは、どうやら異階層のものとも交流できるらしい。それは一方通行であったり双方向であったりするため、どういう関係性なのかはわからない。
そして一階に住む人間のなかにも、極めて少数ではあるが、異階層を認知できる者がある。
「それがぼくらだ。霊感があるとか視えるとか言いますね。ここでは『見鬼』と言うけれど」
見鬼の人びとは、エレベーターに乗って階を移動することができる。力の強さや相性によって、何階に行くことができるかは不規則に変わるらしい。昨日まで行けた階に今日はもう行けなかったりするし、逆に今日突然全く知らない階に行けるようになったりもする──と。
「きみ程度の見鬼はむしろ危険だ。視えても気付かないふりをなさい」
古瀬さんは静かにそう締めくくった。
黒いのに同情している俺の内心を察しているのかもしれなかった。
「あの、でも、こいつは成仏とかできないんでしょうか」
「ほう、成仏。どうやって?」
「なんかこう……お経とか?」
とかって何だ。さすがに自分でもフワッとしているなと思った。
「秋津くん、きみ、もし自分が死んで幽霊と呼ばれるものになったとして、目の前で知らないお坊さんがいきなりお経を上げ始めたらありがたく成仏できます?」
乏しい想像力をフル回転してみたが、そもそも自分が幽霊になるという時点で挫折した。恐らく俺にそこまでの執念はない。
加えて数年に一度の親族の法事なんかのさいは、お経のあいだ眠気と戦っている不信心な現代っ子だ。秋津家は一応真言宗らしいが、それ以外のことは全く知らない。
巽は床を這う黒いのを見下ろしたあと、眉間を親指と人さし指でぐりぐりと揉んだ。
「でも師匠……、さっきの言い方だとこれには何か目的があるんでしょう」
師匠とな? ぱちりと瞬いた俺をよそに、古瀬さんは莫迦にしたような顔で溜め息をつく。
「ぼくは彼岸のものに対する対処法は教えているが、常日頃から同情心は持つなと言っている気がするんですが? まあ巽は雨のなか捨てられた子犬に自分の傘をやって濡れて帰るタイプの不良だから仕方ないのかな?」
「不良いま関係ねーだろ」
「否定しないし。やったことあるのか。……一応訊いておくけど、きみたち、これがどう視えてるの」
巽と顔を見合わせた。どうって、なあ。
それから黒いのに視線をやる。ぷるぷる震える黒い地肌。叶野から離れて床に伸びた姿は少し平べったく、オオサンショウウオみを増している。「ぉーぉー」と、か細く声を上げるのがやや哀れっぽい。
「真っ黒でなんかぬめぬめしたオオサンショウウオみたいなやつ」と俺、
「同じく」と巽。
「オオサンショウウオねぇ」
意味深長な様子で視線を逸らした古瀬さんが、しょうがないなと肩を竦める。いやさすがにオオサンショウウオの霊であると言うつもりはない。それっぽい何かというだけで。俺の目に映るものは、正直なところ、なんだかよくわからないものが殆どだ。
古瀬さんはぱんと膝を叩いて立ち上がると、おもむろにオオサンショウウオの体を引っ掴んでべろんと持ち上げた。
「じゃあとりあえず秋津くん、きみ、これ憑けておいて」
「なんて?」
思わず訊き返し、さらにもう一回訊いた。あのう、今なんて?
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