#1-3 顔の見えない友人
レンタカー借りて遊びに行こうぜ、と言いだしたのは誰だっただろうか。
運転手は免許取り立てほやほやの友人だったから、おそらく彼だと思われる。ともかく高校時代の青春をともに過ごした三人組で、高校生活最後の思い出作りに向かったのは、三月末のことだった。
日中は奈良で観光をした。三人組のうち助手席に座っていたやつが大の日本史好きで、東大寺や興福寺や橿原神宮に行きたいと言ったからだ。有名な寺院を何か所か巡り、奈良公園で鹿に襲われ、服を喰われ、けらけら笑って楽しい時間を過ごしたあと、早めの夕食をとって帰路についた。
そう遅い時間ではなかったはずだ。叶野たちは高校でも派手なほうのグループだったが、素行は至って良好だったし、なんなら運転手は元生徒会長である。八束山に突入したのは七時半。順調にいけば九時までには自宅に帰れる算段だった。
「そういや八束トンネルって心霊スポットやったなぁ」
「せやな。事故多いんやったっけ。気ぃつけや」
と、前の二人がそんな会話をしながら蛇行する山道を下ってゆく。
人家のない山だ。叶野が座る後部座席からは、ひたすらに暗い山の景色しか見えなかった。変化のない風景、適度に揺れる車体、友人の安全運転、これだけ揃えばうとうとしてくるというもの。運転手に申し訳がないから頑張って起きていようとしたのだが、努力も空しく叶野の意識は心地よいうたた寝に片足を突っ込んでいた。
そのときだ。
「わあぁぁっ!」
運転手の悲鳴が聞こえたと思ったら、急ブレーキがかかった。体が前に投げ出され、シートベルトに内臓を圧迫される。うぎゃっと呻いた叶野が顔を上げると、前の二人がパニックを起こしていた。
「なんか轢いた……!」
いつも冷静沈着なクールメガネキャラだった元生徒会長が悲鳴のような声で叫ぶ。
尋常ではない。ぱっと目を覚ました叶野はシートベルトを外す。
「まじかよ。人?」
「ちゃう、なんか黒いの。避けられへんかった!」
車はオレンジ色のライトが煌々と灯るトンネルの中に突入してすぐのところで停まっていた。
叶野が車外に出ると、助手席からもう一人が出てくる。運転手はまだ震えて立てないようだったので、ひとまず二人だけで車の周りを見分した。
真っ暗な山道ならばともかく、トンネル内は明るい。人が歩いていれば見えるはずだ。ということは鹿か何か、動物を轢いたのだろう。
見える範囲にはなんの死骸も転がっていなかった。
しゃがみ込んで車の下を覗いたり、車を少し前進させたりしてみたが、運転手の言う「なんか黒いの」は影も形もない。轢いたあとすぐに自力で逃げていったのだろうか。
それにしたって路上に血痕もなく、車体に傷や凹みも見当たらない。そういえばぶつかったような衝撃も音も叶野は感じなかった。
「おまえ、見たんか?」
気のせいだったのではないのかと疑いながら訊ねたが、助手席に座っていた友人もまた蒼い顔で頷いた。
「見た。絶対轢いたと思ったわ」
黒い何かがゆっくりと車の前を横切った、避けられなかった、ぶつかったはずだ──運転手の主張も概ね同じだった。二人が揃って見たというのなら、多分見たのだろう。見ていないのは寝ていた叶野だけだ。
通報すべきかとも考えたが、轢いた相手はおらず車も傷ついていないしどこかにぶつけたわけでもない、ちょっと電話するのも躊躇われる。というか、どっちにしろ圏外だった。
困りきった叶野はふとあることに思い至った。
駆け足で数メートルほど戻り、トンネルの入り口にある看板を見上げる。照明はないが、トンネル内からの明かりで文字を読むことができた。
『八束隧道』───
「あらまァここ八束トンネルやんけ、ほんなら幽霊でも轢いたんちゃう? ということで、俺たち三人は無理やり納得し、なおいっそうの安全運転を心掛けて帰宅したのでした──おしまい」
叶野はまるで昔話か絵本の読了がごとく締めくくり、アンティークのローテーブルに出されたお茶を飲み干した。
その正面で話を聴いていたひとりの青年が、ふぅん、と薄い笑みを浮かべる。
さらりと流れる絹糸のような黒髪で右目を隠し、白いうなじが映える銀鼠の袷を濃紺の帯で締めている。着流しから覗く首筋や手首や足首はどれも病的に見えるほどうら白く華奢で、どこか冷たい印象の面差しをしたこの人こそ、巽が叶野を引き合わせた相手だった。
彼は
場所は幸丸大学から徒歩十分、閑静な住宅街に佇む洋館である。
四人で三限の講義を受けたあと、古本屋のアルバイトのシフトまでは時間が空くという叶野とその付き添いの俺を連れて、巽はこの場所にやってきたのだった。
瀟洒なアイアンワークの柵がぐるりと周りを囲い、前庭に鬱蒼と生い茂る木々や植物がなんとなく陰鬱な印象を与える広い邸宅であった。白い壁と、深緑で統一された扉や魚鱗葺きの屋根がなんとも上品だ。立派な外観を裏切らぬ立派な内装の西洋館、その応接間に通され、応対した古瀬さんに叶野は八束トンネルでの出来事を語った。
古瀬さんはゆっくりと脚を組んだ。その隣には巽が座っている。
「どうしてもね、あそこは事故が起きやすい地形なんですよ」
俺は叶野の隣、巽の向かいでじっと話を聞いていた。八束トンネルで轢きかけたその黒いのこそ、いま叶野に憑りついているものに違いない。
「鹿嶋から矢上に向かう際は、トンネルを抜けた先に角度の違うカーブが二つ連続しているせいで事故が起きる。矢上から鹿島に下りる際は、下りのカーブを曲がりきれず事故が起きる。死者も毎年大勢出ている交通事故多発地点です、確か大阪府内でもワースト5に入るくらいだったかな。交通安全祈願の祠ができても、事故で祠が破壊される始末」
「あー、慥かに。ガードレールはやたら新しくてペッカペカやったし、お地蔵さんみたいなのあった気がしますわ」
「人のよく死ぬところは心霊スポットになりやすい。心霊スポットになると人が集まる。もちろん人じゃないものもね。そういう意味で有名になると今度は恐怖心が生まれ、見間違いや判断の遅れを招く。そうしてまた事故になる」
ふしぎな響きの声だった。
高くなく、低くもない。男声なのは確かだが、女性的な柔らかさも併せ持つ声質で、だけど喋り方は淡々としているから少し突き放した印象を与える。
「見たところあなたは特にひっつけやすい体質とかじゃあないようだし、心霊スポットに手当たり次第肝試しに行くタイプにも見えないから平気だろうけれど。そういう場所を通ると解っているときは、車の座席は全て埋めるようにしたほうがいいですよ」
「座席ですか?」
「うん。座れる席があるとね、乗り込んできてしまうから」
なんでもないことのように言いながら彼は音もなく立ち上がり、ローテーブルを迂回して叶野の隣に立った。
そして叶野の頭に覆いかぶさる真っ黒いオオサンショウウオを撫でるように手を当てる。
傍目には急に古瀬さんが叶野の頭を撫でたように見えただろう。
「ええと、なにか?」
「失礼。虫が飛んでいたもので」
彼はにこりと左目だけで器用に笑ってみせ、そのまま黒いのを叶野の頭から剥ぎ取った。
黒いのはまるで首根っこを掴まれた猫のようにぶらりと揺れ、床にべしゃりと落っこちる。きょとんと首を傾げるような仕草をしたあと、頼りなく呻いた。
──ぉ……ぉ……。
ぞわっと鳥肌が立つ。慌てて黒いのから目を逸らし、俺は隣の叶野のご尊顔と対面した。
そこには想定以上の顔面偏差値の高い男が座っていた。
色素の薄い大きな眸、彫りの深い顔立ち、高い鼻──なんだかちょっと『リトル・ニキータ』の辺りのリバー・フェニックスみを感じるハンサムがそこにいる。聞いたことがなかったがもしかしたらご両親は国際結婚なのかもしれない、そのくらいエキゾチックな容貌をしている。
喋ればコテコテの純大阪産リア充であることは知っているのに、黙って髪を掻き上げでもすればアンニュイな美青年と勘違いしそうだ。ちょっと感動である。巽も長めの前髪の隙間から叶野を凝視していた。
叶野ぉぉ、おまえ、そんな顔してたのかぁ!
……というかこれは本当に叶野か? 俺も巽も顔が見えないからって叶野じゃないハンサムを連れてきたのではないだろうか?
疑心暗鬼に駆られる俺の横で、叶野かもしれないハンサムは両手で自分の頭をガッと掴んでわなないた。
「ええっ……ナニコレ、なんやねんコレ。長かった髪ィバリカンで刈ったときみたいな爽快感やねんけど……!」
あ、叶野だ。
このコテコテの関西弁は叶野だ。
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