#1-2 顔の見えない友人

 胸から頭部、背中側は肩甲骨あたりまでべったりとかぶさり、一分の隙もなく顔が見えない。

 まるで真っ黒いオオサンショウウオを頭に背負っているかのような状態だ。


 黒いものからはぽたぽたと粘性の液体が滴り落ちている。机や床に垂れた液体は、しばらくするとすぅっと透明になって消えるのだが、どうも血痕のように見えて気分が悪い。以前など叶野の後ろの席に座って講義を受けたらノートに液体が垂れてきて悲鳴を上げそうになった。


 そしてこの黒いの、喋る。

「ぃ……ぁ……ぅ……」といった具合に弱弱しく声を上げるのだ。オオサンショウウオって鳴くの? と検索したことも記憶に新しい。「うぉー」といった感じで鳴くそうだ。じゃあ多分こいつはオオサンショウウオの霊ではない。


 叶野自身には自覚がないらしく、毎日元気いっぱいで生きている。『憑りつかれている』と言って相違ないであろうこの状態では、普通もうちょっと霊障的な何かとか体調不良的な何かがあってもおかしくないと思うのだが。叶野が鈍感なだけなのか、黒いのは黒いだけで特に害はないのか、俺には判断がつかないのだった。


 俺は──まあ俗にいう『幽霊』、みたいなものが視える。

 だが視えるだけだ。話すことも触れることもできない。マンガやゲームみたいに祓う力もありはしない。ただなんとなくそこに在るのが判るだけのときもあれば、シルエットが視えるときもある。声や音だけが聞こえたり、足や手だけが視えたりする。ホラーなあれこれでよくあるように人間の形をした霊がばっちり視えたことは、一度もない。


 周囲には俺と同じような耳目を持つ人間がおらず、幼少期より突拍子もないことを言っては家族に心配され、双子の弟妹には頭おかしいやつ認定された。小学六年冬、さすがにいい加減、あれらは自分以外には視えておらず視えることを喋るのもまたよくないと気付いた。気付いたときにはもう遅く、弟のほうとは未だに仲が拗れたままである。


 だから、巽に話しかけられて驚いたのだ。

 彼は初めて出会った『視える人』だった。

 そういうわけで俺に連行されてきた孤高の一匹狼は、大講義室で待っていた叶野を一目見るなり口元を引き攣らせ、今も若干遠い目で叶野から視線を逸らしている。

 よし、やっぱりこいつにも(黒いのが)視えているし(叶野の顔は)見えていない。


「訊きたいことってこれかよ」

「これなんだよ」


 四人は学部棟の一階にある大講義室の隅っこで、前後二列の机を陣取っている。

 前列に座っている千鳥と叶野が最近はやりのゲームの話で盛り上がっているのをいいことに、こっそり巽と顔を寄せ合った。


「確かに最初のガイダンスのときから、スゲェの背負ったやつおるなとは思っとったけど。おまえあんなのとよく友だちになろうと思ったな」

「いや、もともと千鳥が春休み中の学生証交付で知り合った相手なんだ。同じグループになっちゃったし、叶野自身はほんとにいいやつだし、変に距離を置くのも悪いだろぉ……」

「健康に害があるようには見えんし放っときゃいいだろ。顔が見えんのは確かに不便だが……」


 一体こいつは何なのか。

 何か目的があって叶野にへばりついているのか。

 これを叶野から引っぺがすことは可能か。


 このままでは何かの拍子に叶野の顔が見えるようになったとき、今までずっと一緒のグループだったのに「エッ誰?」とか下手なリアクションをとって正気を疑われかねないのである。困る、それは困る。あと純粋に叶野の顔が見たい。よほどハンサムらしいから。


 嫌そうにしている巽の視線の先で、叶野は首に手を当て、肩を回すような仕草をした。その拍子に黒いのからねばつく液体がぼたぼたと垂れて椅子の背凭れや後列の巽の机に滴り落ちる。巽はさりげない仕草で机に置いていた昼食の弁当を遠ざけた。

 黒いのは叶野の背中から顔面にかけて覆いかぶさっているだけで、叶野の健康を(肩凝り以外に)害している様子はなく、周囲に攻撃してくるでもない。ゆえにそこまで恐怖も感じないのだが、この液体だけは血みたいでいやだなと思っている。


 あんまりにもきつそうに肩を押さえるので気になった。


「叶野、肩凝り?」

「せやねん。なんやろなぁ、ここんとこ肩と首が重くてな」


 そりゃそんな黒いの毎日背負ってたら肩首も凝るわな。


「肩凝りなんて生まれてこの方なかったんやけどなぁ。なんか悪いモンでも憑いとんのやろか」


 大正解だ。悪いかどうかは別にして。

 隣の巽はしれっと口を挟んだ。


「憑りつかれる心当たりでもあるんかよ」

「そういえばこの肩凝り、春休みに肝試ししてからのような気が? しないでもないかも? なんちゃって」

「肝試しぃ?」


 巽の眉間に深い皺が刻まれた。冗談のつもりだったのか叶野は笑っている。


「ちゃうねん、肩凝りは多分全然関係あれへんし、肝試しっつーか通りかかっただけやねんけど」


 いや多分あるよ。多分というか確実にあるよ。むしろそれしかないよ。


「春休みに高校のツレと卒業記念で遊び回ってんな。免許取ったやつがレンタカー運転して、奈良まで行って。その帰りに八束やつかトンネルを通ってん」

「あー、八束トンネルか……」


 千鳥が苦い顔になった。

 訳知り顔の二人の後ろで、八束トンネルとな、と俺は首を傾げた。


「鹿嶋市二大心霊スポットのうちの一つやで。そんとき、運転手と助手席のやつらがなんか轢いた轢いたって大騒ぎしてん。けど車停めて外出て確認してもなんもおらへんし、気のせいやろってことで帰宅したんよな。不思議やなぁ」


 気のせいちゃう! 確実にそれや!

「へぇ」巽は適度に相槌を打ちつつ、「何人くらいで行ったんだ」と訊ねた。


「三人やなー。俺は後部座席におったから、なーんも見てへんけど」

「なるほど三人か。ところで知り合いにそういうのが好きな人がいるんだが、今日時間があったら八束トンネルの話、聞かせてやってくれんか」

「えー? いいともー!」


 叶野が元気な返事とともに拳を突き上げ、その拍子にまた黒い液体が勢いよくぼとぼとぼとっと垂れた。巽はぎょっと身を引いたが、傍を通りかかった女子三人連れは叶野の顔を見て「ヤバ、めっちゃイケメン」と色めき立っている。全く、これが視えないとは羨ましい。

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