File.1 八束隧道、及び旧巖倉博物館

#1-1 顔の見えない友人

 黒い靄が揺れていた。


 はっきりとした形を持たない、黒い粒子が集まってできた靄だ。蚊柱、あるいは鰯の群れにも似ている。大きさはちょうど小学校低学年の子どもくらいだけど、端っこが千切れたり、拡散したり収縮したりするから判然としない。横断歩道のど真ん中を陣取っているものだから容赦ない車の往来に曝され、風に煽られるビニール袋のように上下左右に翻弄されている。

 ぼんやりと眺めていると、


「あんま凝視せんほうがええぞ」


 おもむろに声をかけられた。

 隣を見ると、背の高い金髪の美形が立っている。


 誰だっけ、このひと。いや見たことはある。たしか同じ学部の同じ学科の同じ専攻の……ここまで出ているのに名前が思い出せない。

 金髪美形の視線は、俺と同じほうを向いていた。


 大阪府は鹿嶋市に本部を置く幸丸大学──その本部キャンパスと第二キャンパスを分かつ府道にかかる横断歩道のど真ん中、俺以外の誰にも視えていないはずだった、黒い靄のほうを。


「目が合ったら面倒だ」


 金髪美形が短く吐き捨てると同時に、歩行者信号が青に変わる。車や風に翻弄された末に横断歩道の端っこまで追いやられていた黒い靄は、あっという間に人混みに呑まれた。

 第二キャンパスへ向かう学生の波に乗って、隣に立っていた彼も流れるように歩きはじめる。呆気に取られて返事もできずにいた俺は、そのしつこくブリーチされた薄い金髪を目で追いながら、ようやく彼の名を思い出していた。


 たつみ。──巽大雅たいがだ。

 重めの前髪で目元が見えづらいものの、同じ学科内で誰もが認める迫力美形。同年代の連中よりも一つ飛び出た頭は髪色も相まって遠くからでもよく目立つ。しかし少々不愛想かつかなりの仏頂面なため、入学後二週間が経っても孤高の一匹狼としてどこか遠巻きにされていた。誰かと親しくしているところは見たことがない。だからといってボッチという形容をするにはあまりにも見た目が強そう。俺は勝手に、不良漫画なんかの実写映画に出てくるイケメン俳優みたいな人だなぁと思っていた。


 同じ講義をいくつか受けているが、話しかけられたのは初めてだ。

 あいつにも……視えていたのか。


「……じゃ、なくて!」


 俺はハッと我に返って走りだした。

 青信号が点滅しはじめていたというのも理由のひとつだが、巽大雅が本当に俺と同じ黒い靄を視ていたのなら、ぜひとも話を伺わなければならない。必要とあらばカツ丼をも奢る覚悟である。そういえば実際の警察の取り調べの際には、被疑者に食事を提供することは禁止されているらしいというのはもういい加減有名な話だ。幸いにして取り調べを受けた経験がないからことの真偽は知らないが。


 じゃ、なくて!


「巽!」


 人混みのなかにようやく発見した金髪頭目掛けて突っ走り、シャツを両手で引っ掴む。


「──あ?」


 不機嫌そうに威嚇された。三白眼がじろりと見下ろしてくる。ひぃ怖い。

 だがしかし、退いてはならぬ理由がある。


「ちょっとあの、訊きたいことあんだけど!」

「……おまえ誰だっけ」

「秋津綾人ともうします!」



 俺、こと秋津綾人は困っていた。

 どのくらいかというと、これまでの十八年間の人生で一、二を争うくらい、困っていたのである。

 その原因は現在俺の斜め前に座っている友人だ。


「まっさか秋津が巽をナンパしてくるとはなー」


 語弊ありまくりの発言をするこの友人、名を叶野きょうの蓮司。

 油絵風のレトロな柄シャツにニットベストを合わせたそこはかとないお洒落さんだ。自他ともに認めるフツメン黒縁眼鏡の俺が同じコーディネートをしたら大事故になりそうな組み合わせだが、なんかお洒落に見えるずるい男だ。


「断じてナンパではない!」

「ナンパされた覚えはない」


 俺と巽が揃って否定すると、叶野は悪い悪いとちっとも誠意の籠もっていない謝罪をした。


 叶野の性格は至って明るく、あっけらかんとして愛想がいい。中学・高校時代はクラスをまとめるリーダー格だっただろうなと思われたし実際そうだったらしく、基本的に大人しいタイプであると自負する俺には目も覆わんばかりに眩いスクールカースト最上位オーラを醸し出している。パリピ一歩手前のリア充で、あとちょっとの経験値を積めば立派なパリピに進化するであろう。


 それに加えて顔もいい……らしい。

 同じグループの間宮千鳥が「叶野は今日も顔がえぇなぁ」とたまに零すので、たいそうなご尊顔であると推察される。千鳥とは高校時代からのつきあいだ。嘘をつかないしお世辞も言わないタイプの正直人間なので、恐らく叶野は顔がいい。

 友人の顔面なのになぜ断言できないのかというと、顔の美醜は個人の価値観だからとかそういうフワッとした話ではなく、見えないからだ。


 文字通り見えない。

 顔が。

 知り合ったその日から二週間、ずっと。


「ちゃうねん。秋津って人見知りとはちゃうけど自分から話しかけに行くタイプでもないやん。巽に声かけて連れてきたの意外やったわぁって話よ」

「うーんでも綾はわりと人誑しなとこあるからなぁ。巽みたいのは俺や叶野より綾みたく莫迦正直な善人が効くんやろ」


 褒めているのか貶しているのか微妙なことを言いながらお手製の弁当を広げているのが相方の千鳥。爽やかスポーツマンの皮を被ったゲーマーだ。ややオカン気質があり、今も俺と巽を微笑ましそうな顔で眺めている。


「あー人誑しな、なるほど。秋津って裏がないよなぁ。人当たり柔らかいしなぁ」

「裏がなくて嘘がつけなくて正直者ゆえに無自覚で正論パンチかましてくることもあるけどな」

「おお。そらパンチされんのが楽しみや」


 と、人の話でけらけら笑いながらカレーパンの袋を開けた叶野の顔面は、謎の黒い物体に覆われている。


 物体──とは言えないかもしれない。

 ぬめぬめした質感の、とにかく正体不明のものである。

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