たそがれ重畳奇譚

天乃律

カフェ『青い鳥』にて

 待ち合わせをしていた喫茶店のドアを開けると、窓際のテーブル席に座っていた少年が顔を上げた。


 カウンターの奥にいた馴染みの店員がいらっしゃいませと静かに声をかけてくる。それから人数を訊いてくるでも席に案内するでもなく、黙ってお冷やとおしぼりを準備しはじめた。

 店内に一人しかいない客の少年の反応を見て待ち合わせだと判断したのだろう。こちらも勝手にテーブル席へ歩み寄る。

 少年はやや緊張した面持ちだった。


 ……には、あまり似ていないな。


 色素の薄い、柔らかそうな髪の毛。少し病的にもみえる蒼白い肌。あどけなく、どこか女性的な顔立ち。背は俺よりも頭半分低いが華奢で薄い体にすらりと長い手足をしている。そういった一つ一つのパーツのつくりにはとの共通点を見いだせるものの、纏う雰囲気は正反対だ。この少年が穏やかな春の陽射しなら、彼は冬の凍てつく月光のような人だった。


「以前にも一度お会いしましたが、改めまして、不知火しらぬいがくともうします。お忙しいなかお時間をいただきありがとうございます」


 折り目正しく頭を下げた彼は、俺の親しい友人の妹である間宮真波と同じ中学に通うクラスメイトだ。学年は二年生、年齢は十三か四。その年頃の男子にしてはずいぶんと落ち着いた立ち居振る舞いをする。

 俺が同じ年頃だったときは……粗野というほどではなかったが逆立ちしても上品とはいえない、至って普通の男子だった。

 気を取り直してこちらも名乗る。


「秋津綾人です。真波ちゃんの兄貴の友人で、幸丸大学の職員をしてる。……座ろうか」


 俺が着席するのを待ち、樂少年も腰を下ろした。

 なんだかなぁ。接点の薄い相手を呼び出したっていうので緊張するのはわかるんだけど、そんなに畏まられると俺まで緊張しちゃうんだよなぁ。


 店員が折を見てお冷やを持ってきた。テーブルの端に置いてあったメニューを手に取る。


「何か頼んだ?」

「いいえ。秋津さんがいらしてからと思って」

「奢るから好きなの頼みなー。ケーキとか好き?」

「ぼくがお呼び立てしたのですからぼくが支払います」

「中学生に払わせるなんてとんでもない。それに、お兄さんには大学生の頃、たくさんご馳走になったからさ」


 樂くんの表情ががちりと固まった。

 この『お兄さん』こそが今日の本題だからだ。


 二人揃ってケーキセットを頼み、樂くんにはアイスココアを、俺はアイスコーヒーをつけた。俺たち以外に人間の客はいない。店内に流れる有線放送のジャズと、あとはカウンターの向こうから聞こえる店員たちの作業の音だけが、樂くんとの間に流れる微妙な沈黙を埋めていた。

 どこから話そうかと逡巡していたらしい樂くんが、意を決して口を開く。


「あの、間宮さんからお聞きと思いますが、ぼくの実家は東京のほうになります」


 この会談のきっかけとなる出来事が起きたのは、先月のことである。

 樂くんや真波ちゃんの通う中学校で、怪異にまつわる事件が勃発したのだ。

 コックリさんにはじまる狐憑き騒動、存在しなかったはずの七不思議にまつわる怪現象、そして古くからその中学校にいるといわれる『n番目の生徒』──、様々な糸の絡み合う不可解で悲しい事件だったと聞いている。数年前から真波ちゃんに「師匠」と慕われる俺も、巻き込まれるかたちで首を突っ込み、当時失声症ということになっていたこの少年と顔を合わせたのだ。


 最初は全く気がつかなかった。

 まじまじと顔を見ても、不知火樂という名前を聞いてもぴんとこなかった。

 ようやくおやと勘付いたのは、どうやらこの少年には、俺や真波ちゃんと似た世界が視えているらしいと察したことである。


 俺は彼を知っている。

 正確には、彼の兄を知っていた。


 そして中学校の怪異が落ち着いた今、真波ちゃんの紹介でこの会談が実現したというわけだ。


「なんとなく、真波ちゃんから事情は聞いてる。大阪に来るために声が出なくなったふりをしてたんだって? そういう大胆な手口はお兄さんそっくりだね」


 う、と唸った樂くんが僅かに頬を赤らめた。無茶苦茶をやった自覚があるらしい。

 まあ話に上がる彼の兄の場合は、父親に反発するあまり財布ひとつで東京を出て大阪にある祖父の屋敷に転がり込み、そのままこちらに居着いてしまったという、大胆というかほとんど家出少年の経歴をもつのだが。

 樂くんは気を取り直すように咳払いをした。


「おっしゃる通り、ぼくには歳の離れた兄と姉がいます。姉は十一年前に、兄は四年前に、それぞれこの大阪府鹿嶋市で消息を絶ちました。姉のほうはすでに失踪宣告がされ、葬儀も営まれています。……家のみんなは、そういう家系なのだから仕方がない、きっともう二人とも戻らない、と言うのですが──」


 俺はそっと目を伏せた。

 視界の端で、お冷やのグラスに張りついた水滴が涙のように滑り落ちる。


「遺体も見つかっていないのに、諦めることなんてできないんです。少なくともぼくは」


 だから樂くんは声が出なくなったふりをした。

 行方不明の家族を捜すために。


 彼らの表の家業では『声』は最も重要視されるものだから、姉と兄がいなくなり跡取りとなる樂くんはなんとしても声を取り戻さなければならない。心因性の失声症を装い、しばらく叔母夫婦の住む大阪で療養したいと訴えたのだ。そして転校した先で真波ちゃんに出逢い、俺を見つけた。


 さて、と俺は息を吐く。

 彼の求めるものは当然兄に関する情報だろう。協力するのは吝かではないし、そこそこ提供できるものを持っているつもりだ。

 ただ、感慨が胸に痞えて邪魔をするだけで。


「……最初に見たときはあんまり似てないなと思ったんだけどさ」


 結局、第一印象の話からはじめてしまった。


「弟なんだ……ってわかってから見てみると、姿勢のいいところとか、喋り方とか、特にその声、師匠とおんなじだね」

「声、ですか」


 樂くんは実感のない様子で瞬きを繰り返した。

 彼の兄は──俺の師匠は、その聞き取りやすい声で様々なことを語ってくれた。高くもなく低くもない不思議な音程の、滑らかな声で。

 あれだけ一緒に日々を過ごして、たくさんのことを教えてもらったのに、思い出せるのはもう限られたフレーズだけだ。五感と結びついた人の記憶のなかで一番に消えてしまうのは声だという。それを教えてくれたのも師匠だった。


 樂くんはきっと師匠の声なんて憶えていないだろう。

 けれど今、師匠と同じ声をした樂くんがなんの支障もなく喋っていられるそのことこそが、彼が命を賭して多くのものを守り抜いた証左に他ならない。


「師匠が、今どこにいるかは解らない。だけど彼がどういうふうにしていなくなったのか、何を成し遂げたのかなら教えられる。樂くんの望むような情報じゃないかもしれないけど、それでもいいかな」

「かまいません。教えてください、ぼくの知らない兄のことを」


 店員がシルバーの丸盆に載せたケーキセットを運んでくる。長くなりそうだな、どこから話せばいいのかな。まあいいか、時間はたっぷりあるんだし。



 ──俺があの人に出逢ったのは、六年前の四月のことだった。


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